大斎節第4主日「命のパンの分かち合い」ヨハネ6:4-15(2024年3月10日)

父と子と聖霊の御名によって アーメン

  

 明日で東北大震災から13年目を迎えます。犠牲になられた15万9千人の方々の魂が主のみ側で憩うことができますように祈ります。また今後の復興にも神の御守りがありますように祈ります。

 

 さて大斎節もいよいよ後半に入ってきました。私たちが主イエスの苦しみの意味を理解し担うために、残りの三週間を実りある大斎節にしたいものです。

 

 本日の福音書では有名な5つのパンと2匹の魚の話が語られました。

 主イエスの宣教活動は日を追うごとに人々の間に知れ渡っていきました。主イエスの話を聞くために多くの人が集まって来ました。今日の福音書では、男だけ数えると5千人の人々が集まったと書かれています。女性や子どもたちも併せるとおそらく1万人は集まっていたのではないかと思われます。

 

 主イエスの話を聞いている内に、いつしか食事の時間が迫ってきました。主イエスは弟子のフィリポに「これだけの人々を食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と尋ねられます。弟子フィリポは、友人のナタナエルに「来て見なさい」と言って、主イエスに紹介した弟子です。そのフィリポを試すために主イエスが尋ねられたのです。主イエスは、今まで自分に従ってきた弟子たちに、「神へ祈る」ということの大切さを、分かって欲しかったのでした。

 しかし、現実的なフィリポは「これらの人々に食べさせるには200デナリオンでも足りないでしょう」と答えます。1デナリオンは1日分の給料です。200デナリオンは200日分の給料に当たります。月給に換算しますと200日分は約7ヵ月の給料になります。平均的な金額に直して150万円くらいでしょうか。

 

 主イエスはフィリポを叱るのではなく、神に祈ることの重要性とパンを分け与えることの意味を、身を以て教えようとされたのです。

 主イエスは少年が持っていた5つのパンと2匹の魚をとり、感謝の祈りを捧げて、主イエス自ら裂いて分け与えられたのでした。これは現在の聖餐式のパンを裂くことの意味も表しています。

 

 その分け与えられたパンと魚を食べた約1万人の人々は、先を争ってパンに群がることなく、主イエスが配られるパンを静かに待ち、皆で分かち合って食べたのでした。皆が満足して、そのパン屑が12の籠一杯になりました。12という数字は「完全」を表す意味もあります。そこにいた全ての人々が、心も身体(からだ)も満足したと言うことを意味しています。

 

 3.11の東日本大震災で被災した人達の仮設住宅を訪問してお話を聞かせて頂いたことがあります。地震発生直後、津波警報を聞いて、取りあえず避難場所に避難しました。すぐに戻れると思って準備もしないで、そのままの姿で避難した人もいました。ところが実際に津波が押し寄せたのです。その日の夜は、不安と恐怖のために空腹も感じなかったそうです。次の日から、わずかなおにぎりが配られましたが、先を争って取り合うのではなく、皆で分け合って食べたと言うことです。主イエスがなされたことが実際に起きたのでした。

 

  「ヨハネによる福音書」はユダヤ教からキリスト教が分離していく過程で、ユダヤ教内でどちらに行こうか迷っているキリスト教信徒へ決断を迫るために書かれた文書であると言われています。したがって、ユダヤ教を刺激しないように、象徴的な言葉や数字を使って意味を表そうとしている部分が有り、読む時に注意して読まなければならない事があります。

 

 本日の福音書もすこし注意して読む必要があります。

 この奇跡の話は「マタイによる福音書」、「マルコによる福音書」、「ルカによる福音書」にも出てくるのですが、この3つの福音書では弟子が群衆にパンや魚を配ります。しかし、ヨハネによる福音書では、主イエス御自身が直接、配られたと書かれています。主イエスはこの事を通して、自分がこの世を去った後も、皆が集まり、主イエスの十字架を記念するために、パンを裂いて、いっしょに食事をしなさいと言われているのです。主イエス亡き後も私たちが教会に集まり、聖書のみ言葉を聞き、祈り、主イエスと共に聖卓を囲み聖餐にあずかる時、私たちは、主イエスに愛されていることを実感します。私たちは肉体の空腹を越えて、心から満たされ、精神的にも肉体的にも満足感を得ることが出来るのです。

 

 礼拝の後に、いっしょに昼食の食卓を囲む時、楽しい話に花が咲き、豪華な食事でなくても、心もお腹も満たされていることに気づきます。

 ご家庭で一人で食事をされる方もおられると思いますが、私たちが一人で食事をする時も寂しい事はありません。命のパンの分かち合いは、私たちの食卓にも続いているのです。食卓の向かい側には主イエスが座っておられます。そして私たちが、愛した人達をも食卓に招いて下さいます。その時、私たちは主イエスの愛を感じながら、心から満腹することができるのです。

 

 主イエス・キリストの十字架と復活を記念する聖餐式を続けましょう。