大斎節第5主日「一粒の麦」ヨハネ12:20-33 (2024年3月17日)

父と子と聖霊の御名によって アーメン

 

  大斎節もいよいよ第5主日を迎えました。誘惑の多いこの季節ですが、皆さんいかがお過ごしですか?1日のどこかで静かに自分の生活を振り返る時間が欲しいものです。

 

 さて、今日の旧約聖書では預言者エレミヤの書が読まれました。イスラエルはソロモン王の死後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂します。エレミヤは南ユダ王国の預言者です。エレミヤは南ユダ王国がエジプトやバビロニアから攻撃され混乱状態にある中で、神からの言葉を伝えるのです。つまり預言をするのです。モーセの律法を守らない民衆に対して、人間が、律法によらない新しい契約を神と結ぶ日が来ると預言するのです。

 つまり主イエスによって結ばれる新しい契約です。いくら律法を守っても人間の意志だけではどうにもならない。神の赦しと救いが必要だとエレミヤは言うのです。

 そして、福音書では、主イエスが「人の子(主イエスご自身)が栄光を受ける時が来た」と宣言されます。エレミヤの預言した新しい契約が実現する時が来たのです。エレミヤの預言から600年後のことでした

 主イエスは十字架に架かるために、「過ぎ越の祭」で賑わっているエルサレムに入場されます。祭りのためにエルサレムに登ってきた人々の中には異邦人(外国人)もいました。主イエスの事はすでに異邦人の間にも広まっていました。ギリシャ人で主イエスに関心を持った人々が「主イエスにお会いしたいのですが」と、フィリポに取り次ぎを頼みます。先週もフィリポが出て来ましたね。

 フィリポは12弟子の中でマネージャー的な働きをしていたようです。フィリポはアンデレと相談して「ギリシャ人がラビの話を聞きたいと言っておりますがどうしましょうか?」と主イエスに取り次ぎます。そこで主イエスは異邦人にも話しておく必要があるとユダヤ人と異邦人に対して話を始められます。

 「いよいよ人の子が栄光を受ける時が来た。」と語りかけられます。しかし殆どの人はこの栄光を間違って受け取っていました。主イエスがローマ兵を滅ぼしてイスラエルが復興すると思っていたのです。主イエスの栄光とは、人々の思いとは異なって、裏切られ、唾をはきかけられ、衣服をはぎ取られ惨めな姿で十字架にかけられ殺されるということ、つまり神の御心に従うと言うことなのです。

 そこで主イエスは自分を「一粒の麦の種」に譬えられます。「一粒の麦の種」は地に落ちて死んだように見えますが、それから芽が出て多くの実を結ぶのです。譬えを通して、主イエスの死後、福音が異邦人にも広まって行くことを告げられます。

 さらに主イエスに従うための心構えを告げられます。

 「自分の命を愛するものはそれを失うが、自分の命を憎むものはそれを保って永遠の命を得ることが出来る」と簡潔ですが重たい言葉で語られるのです。

 自分の命を愛する人とは、自分の命だけを大切にし、自分のためにだけ使おうとする人の事です。自分の命を憎む人とは、自分の命を粗末にするということではなく、与えられた命を隣人を愛するために献げる生き方をする人の事です。イエス・キリストはその模範になられたのです。

 しかし、その主イエスでさえ、これから自分の身に起ころうとする苦しみを想像して動揺し、思わず「父よ、私をこの時から救ってください」と口に出かかります。その後、主イエスは気を取り直し「私はまさにこの時のために来たのだ。父よ御名の栄光を現してください」とすべてを受け入れることを祈られます。

 その時、大きな雷鳴が聞こえます。その雷鳴の中から「私はすでに今までの活動の中で栄光を現した。再び栄光を現そう。」といわれる父なる神の声が聞こえてきました。

 イエスは「この声は私のためではなく、あなた方のためである。最後の時すべての人を自分の所に引き寄せるためである。」と、御自分の死後のことを示されたのでした。

 

 残念ながらこれからイエス・キリストの身に起こることは弟子たちには予想も理解も出来ないことでした。

 

 私たちもある意味では「一粒の麦の種」です。神さまから与えられた命を自分のためだけに使うのではなく、周りの人を少しでも幸せにするために使う時、私たちは一歩「神の国」に近づいたことになります。そのことが、一粒の麦が死に、多くの実を結ぶ事なのです。

 私たちもいずれこの世での生を終わります。その時、私たちは何らかの形で自分の生きた証しをこの世に遺していきます。その生きた証しが、神の御心に適うものでありたいと思います。

 

 以前に、「聖書を読む会」で取り上げました三浦綾子著の「塩狩峠」の冒頭には

 「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにてあらん、

  もし死ねば、多くの実を結ぶべし。(ヨハネ12:24)」

と書かれています。実話を元にした小説ですが、主人公の永野青年が自分の身をもって、列車事故を防ぐ物語でした。

 

 必ずしも行動を起こすことが「一粒の麦の種」を活かすこととは限りません。静かに祈りながら見守ると言うことも必要なときもあるのです。祈りながら主イエスならどうされるかを考えながら行動することが必要になってきます。

 

  この大斎節の第5主日の1週間を「一粒の麦の種」としてふさわしい生活をしているか、自分の生活を振り返りながら過ごしたいと思います。