復活前主日「本当にこの人は神の子だった」マルコ15:1-39(2024年3月24日)

父と子と聖霊の御名によって アーメン

 

 教会の暦で言えば、復活前主日は主イエスがエルサレムに入られた日です。「棕櫚の日曜日」とも呼ばれています。「マタイによる福音書」21章には、その時の様子が記されています。人々は主イエスがロバに乗って通られる道に、棕櫚の葉を敷いたり、自分の上着を敷き、「ホサナ!ホサナ!(お救い下さい)」と大歓迎をしたのでした。

 しかし、五日後には人々は一転して「十字架につけろ」と叫ぶのです。

 

 今日の福音書では主イエスの裁判から、十字架の死までが語られました。主イエスの罪状は一体何だったのでしょうか?主イエスは十字架刑にあたる罪を犯されたのでしょうか?

 

 14章の53節から裁判が始まります。ローマ帝国の征服地への支配の仕方は、ある程度の自治権を征服地に認めるやり方でした。そこで主イエスはイスラエルの最高法院で裁かれることになりました。裁判の中で次々と不利な証言をする者が現れますが、なかなか主イエスを罪人とする確実な証拠は見つかりません。そこで大祭司は「おまえは皆が言っているように、ほむべき方の子メシア(救い主)なのか」と尋ねます。そこで主イエスは「(あなたたちがそう言うなら)そうです。あなたたちは人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれてくるのを見る」と答えられます。ところが大祭司はこの言葉をとらえて、「これ以上、証人がいるだろうか。これが神を冒(ぼう)瀆(とく)する言葉だ」と断言し死刑を決議するのです。すなわち冒瀆罪としたのです。

 

 実際に死刑を執行するのはローマ軍の仕事です。そこでピラトの所に主イエスは連れて行かれるのです。その途中で主イエスは唾を吐きかけられ、目隠しをされ拳(こぶし)で殴られたり、侮辱を受けられます。また愛する弟子のペテロは主イエスが言われたとおり、鶏が鳴く前に主イエスを知らないと言ってしまうのです。

 

 ピラトは何も言い訳をしない主イエスを見て、罪を犯すような人間ではないと分かります。また、イスラエルの祭司長達がねたみのため「死刑」にしたがっているのにも気がつきます。当時の習慣として、祭りのたびに囚人を一人解放することになっていました。ピラトは主イエスを釈放するために、集まった群衆に誰を釈放して欲しいのかを尋ねます。祭司長達に煽(せん)動(どう)された群衆は「バラバを!」と叫ぶのです。バラバは強盗を働いた囚人でした。ピラトは群衆の叫びに負けて、主イエスを兵士たちに引き渡すのです。ピラトにとってはユダヤ人の内部抗争として写っていたのかもしれません。ユダヤ人の暴動がおさまればそれで良かったのです。

 当時十字架刑に決まった罪人は自分で十字架の横木を刑場のあるゴルゴタの丘まで運ばなければなりませんでした。(ゴルゴタはアラム語。カルヴァリはラテン語。意味は頭蓋骨)。主イエスは虐待や鞭打ちで疲労し、運ぶ体力は残っていませんでした。キレネ(北アフリカ)から来ていたシモンがその十字架を運びました。主イエスは弟子となる条件として「自分の十字架を負ってきなさい」と言われましたが、シモンはその通りになったのでした。

 最後に主イエスは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」の言葉を残して息を引き取られました。この言葉は本日の日課詩篇として、先ほどお読みしました、詩篇第22編の冒頭部分です。この詩篇は全体を見ると絶望の詩ではなくて、神への信頼と希望の詩であることが分かります。主イエスはこの詩の全体を語られるつもりだったのかも知れません。

 

 その後も人々は、主イエスが奇跡を行うのではないかと眺めていますが,人々が望むようなことは起こらないまま主イエスは息を引き取られます。

 そして「本当にこの人は神の子だった」と最初に気づいたのは、主イエスを処刑した異邦人であるローマ兵だったのです。

 

 今日の福音書の中に、周りに振り回されやすい私たちの姿を見つけることが出来ます。エルサレム入場で「ホサナ!ホサナ!」と叫んだのは私たちではありませんか?

 最高法院からピラトの所へ送られる主イエスに唾を吐き、拳で殴ったのは私たちではありませんか?

 主イエスを知らないと言ったのは私たちではありませんか?

 「十字架につけろ!」と叫んだのは私たちではありませんか?

 苦しみの中にある主イエスに、見せ物的な奇跡を期待していたのは私たちではありませんか?

 そして、「本当にこの人は神の子であった」と認めることが出来るのも私たちなのです。

 主イエスは私たちが弱い人間であることをよくご存知です。それでも辛抱強く私たちを見守ってくださいます。それは私たちがいつかは主イエスが神の子であるということを理解出来る能力を持っていることをご存知だからです。

 

 今週はつらい一週間ではありますが、復活によって主イエスの時代の到来を感じ取ることが出来る希望の一週間でもあります。

 

 今週の金曜日は「主イエスの十字架上の最後の7つの言葉」

思い起こし黙想の時を持ちたいと思います。また金曜日は断食日でありますが、形だけではなく主イエスの十字架と復活の意味を考える断食であり、復活への希望にあふれた一週間にしたいと思います。