復活節第2主日 「見ずして信じる」ヨハネ20:19-31(2019年4月28日)

父と子と聖霊の御名によって アーメン

 

 大斎節が終わるとなにかしらほっとした気分になります。それと同時に、主イエスの復活により何か新しいことが始まるという気持ちになります。皆さんはいかがですか?

 

 復活日の後、40日目の昇天日(5月30日)まで復活節が続きます。キリストの十字架の死と、復活の意味をこの40日間に思い巡らしていく期間にしたいと思います。

 さて今日の福音書はヨハネによる福音書20章19節以下を読ませていただきました。今年の聖餐式日課はC年ですからルカによる福音書が中心ですが、復活節第2主日では、毎年共通でこの箇所が読まれますので皆さんよくご存知の箇所です。

 聖書に沿ってこの一週間の出来事を振り返ってみましょう。

 復活の朝、つまり先週の日曜日の朝、マクダラのマリアは主イエスの体に香油を塗るためにお墓に行きます。ところが墓石が取りのけてあり、墓の入り口が開いていたのです。マリアは慌ててシモン・ペトロと主イエスが愛しておられた弟子ヨハネにこのことを知らせます。ペトロとヨハネは走って墓に行きます。ヨハネは先にお墓に着きますが、中に入る勇気が無くて、入り口から墓の中を見ています。遅れて到着したペトロはそのまま墓の中へ駆け込みます。そして主イエスの亡骸がないのを確認します。ヨハネも墓に入り、聖書に書かれていた「イエスは必ず死者の中から復活される」という言葉を思いだし、信じたのでした。

 

 二人の弟子は家に帰りましたが、マリアはそのまま墓に残ります。そこで復活の主イエスに出会うのです。最初は墓の掃除をする園丁だと思ったのですが、「マリア」と懐かしい呼びかけの声で主イエスとわかり「ラボニ(先生)」と応えるのでした。しかし、大好きだった先生にすがりつこうとするマリアを、主イエスは制止されます。

 マリアは弟子たちの集まっているところに行って、そのことを伝えます。たぶん弟子たちの多くはマリアの言うことを信じなかったことでしょう。

 その日の夕方、すなわち先週の日曜日の夕方 、弟子たちが鍵を掛けて潜んでいました。弟子たちは自分たちも大祭司や律法学者やファイリサイ派の人々から罪に問われるのではないかという恐れと、主イエスを裏切って逃げてきたことへの自責の念に駆られて厳重に鍵を掛けて潜んでいたのでした。

 その鍵を掛けた家に主イエスは入ってこられ、「あなた方に平和があるように」と励ましの言葉をかけられます。そして弟子たちに手と脇腹の傷を見せ、復活の姿をはっきりと現されたのです。そして聖霊の息を弟子たちに吹きかけられ、弟子たちに罪を赦す力と権威を授け、復活の姿を世界に伝えるように派遣の準備をされました。トマスはちょうどその時、その場にいませんでした。他の弟子たちから、その時の話を聞いて悔しがりました。そして「実際にこの目で見て、傷跡をさわってみるまで信じない」と弟子たちに言い放つのでした。

 その8日後、ちょうど今日にあたります。トマスのために主イエスは弟子たちのところへ再び姿を現されました。そしてマグダラのマリアにも御自分の身体を触れさせられなかったイエスは、トマスには身体を触れさせられることによってトマスの疑いを解かれたのでした。

 トマスという弟子はマタイ、マルコ、ルカの共観福音書(同じ資料を使って書かれた福音書)では、十二弟子のリストの中ほどに登場するだけですが、ヨハネによる福音書では、重要な役割を果します。

 ヨハネによる福音書の11章16節では、イエスがラザロを復活させるためにユダヤ地方に戻る際の危険を見抜き、仲間の弟子たちに「行って私たちも、一緒に死のうではないか」と、イエスと共に死ぬ覚悟で呼びかけます。

 また、ヨハネによる福音書14章5節に記されている最後の晩餐の席では、主イエスが復活と再臨について「あなたたちは、私がどこに行くのかその道を知っている」と語られるのを聞いて「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしてその道を知る事が出来るのでしょうか」と質問するのです。

 トマスは自分の無知を素直に認め、イエスに質問します。その質問がきっかけとなって、イエスはさらに分かりやすく説明されるのです。このようにヨハネによる福音書では実直な弟子として描かれています。

 さて話を元に戻します。イエスはマクダラのマリアには身体を触れることを禁じられましたが、トマスには自分の身体に触って確かめるように言われました。この事からイエスは相手の理解度に応じてわかりやすく説明して下さることが分かります。

  イエスは御自分の身体を、トマスに示されながら言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 トマスもまたイエスを裏切り、捨てて逃げ出した者の一人でした。さらにイエスの傷跡を見るまではイエスの復活を信じないとまで言い切ったのでした。

 このトマスの態度を見ると、ふと私たちの事ではないかと思います。私たちも時として、主イエスを裏切ることもあります。また主イエスを信じるのにいろいろな条件を付けることがあります。「復活が本当ならイエスを信じる」「イエスの処女降誕がなければ信じるのに」「奇跡は本当なのか」などなど様々な条件を付けます。トマスと同じです。

 そのトマスに主イエスはやさしく語りかけられるのです。この主イエスの語りかけに対してトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と絶句したのでした。さらに、イエスは慰めるようにトマスに言われます。「わたしの傷を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 この言葉には重要な意味があります。復活のイエスを実際に見ることが出来た人々は限られていました。弟子たちと数人の女性たちでだけでした。イエスは、やがて復活のイエスを体験することの出来なかった人々の時代が来ることをこの言葉を通して伝えられたのでした。

 事実、その後パウロのように、イエスに直接出会うことが出来なかった人々によって、イエスの福音は語り伝えられ始められたのでした。それから2000年を経て、私たちも復活のイエスを直接見ることは出来ませんが、イエスは私たちに「見ないで信じる事」を求めておられるのです。そして、それが出来る人は幸せな人であるとイエスは言われるのです。

  見ないで信じる事は難しいことですが、イエスの復活を見た弟子たちは、その確かな情報、すなわち福音を宣べ伝え始めました。それが2000年経っても滅びないと言うことは、イエスの復活が正しかった事の証明でもあるのです。つまり私たちは「見ずして信じる」ことが出来るようになったのです。

 「見ずして信じる」事をイエスは望まれますが、私たちが悩みの中にある時、絶望している時、決断に迷う時、祈りの中で私たちに復活のみ姿を現し、慰め、癒し、勇気づけて下さいます。「見ずして信じ、祈る」時に、イエスは私たちのすぐ側に立って下さるのです。 

 み国に入る日まで共に信仰生活を続けていきましょう。

カラバッジョ 聖トマスの疑惑