復活節第6主日「私たちは神の作品であって」(小林史明司祭) (2018年5月6日)

わたしたちは、イースターから今日まで、6回の日曜日を過ごし、今週の木曜日は昇天日です。この間に、私たちはイエス様の復活の意味を考えながら、それを体験した弟子たちがどのように変わっていったか、学んできました。そして、その弟子たちの後継者である私たちが、どんな歩みをしたらいいのか、毎週、礼拝でそれに気づくように、聖餐式の最後に、司祭が祝福を言う前、祈祷書の185ページに書き出されているのですが、復活日の言葉を覚えておられるでしょう。

 

『永遠の契約の血による羊の大牧者、主イエスを死人のうちから復活させられた平和の神が、皆さんを強め、み心にかなうすべての良い業を絶えず行わせてくださいますように』という言葉です。

 

以前の文語の祈祷書では、一年中、聖餐式の最後に、司式者だけでなく、全員が感謝の祈りをする時に、『絶えずこの聖なる交わりのうちにありて、主の備えたまいし良きわざを行のうことを得させたまえ。』と唱えていました。残念ながら現在の感謝の祈りにはその部分が消えてしまっています。

 

これらには『良い業』という表現が出てきます。この言葉の根拠になっている聖書の言葉は、エフェソの信徒への手紙2章10節。『なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。』聞かれたことがあるでしょう。

 

私は口語訳の方が好きなんです。日曜学校で覚えた聖句だからです。
『わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。』

 

私たちは何のためにこの世に生れて、何をして生きて行ったらいいのか。ちょっとアンパンマンの歌みたいですが、このエフェソの信徒への手紙を書いたパウロは、私たちが神様によって造られたのは、神様が用意してくださった、良い業、良い行いをして過ごすことだ、とハッキリ言っています。それでは、良い業、善い行いとは、具体的にどういうことなのでしょう。

 

今日の福音書は、イエス様が十字架に架けられる前の晩、弟子たちに掟を与えられたところです。この掟を守ることが、良い業につながるのではないか、と思います。その個所を引用してみます。

 

『15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』

 

イエス様が私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合うことが掟ですが、翌日、イエス様は、全人類の救いのために、十字架にかかって、ご自身の命をささげることになるのです。ですから、その掟の一番究極の形として、『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』と言われたのでしょう。そのことを、具体的な例として、「銀河鉄道の夜」という、宮沢賢治の小説から、考えてみたいと思います。

宮沢賢治のことは、皆さんよくご存じでしょう。私は「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」という詩を小学校の時、読んだので名前を知っていました。そして、「セロ弾きのゴーシュ」という物語の絵本が家にありました。しかし、その作者が宮沢賢治であることはだいぶ後になって、知ったのです。

 

数年前ですが、藤城清治という影絵作家の展覧会を見て、「セロ弾きのゴーシュ」だけでなく、今まで題名だけは聞いたことのある「銀河鉄道の夜」とか「風の又三郎」も紹介されていました。ただ、見に来ているお客さんが多かったので、「風の又三郎」の方は、時間をあまりかけず、通り過ぎました。それを観る前に、「銀河鉄道の夜」の方に衝撃を受けたからです。

 

このお話を知っておられる方も多いかもしれません。すべてを説明することもできませんが、主人公は、ジョバンニという男の子。彼の一番の親友は、カムパネルラという少年で、他の少年たちがジョバンニのことをからかっても、カムパネルラだけは、ジョバンニを温かく見守るような優しさがありました。

 

ある日、ジョバンニとカムパネルラは、宇宙を旅する銀河鉄道に乗って旅をしているのです。現実とは思えない夢のような出来事です。ジョバンニの前の席には、仲良しのカムパネルラが、なぜか濡れたような真っ黒の上着を着て、座っています。それに、この列車には他にも変わった旅人がいました。10歳くらいのかわいい女の子と、どうも彼女の家庭教師らしい青年が乗っていたのです。

 

その青年の話によると、彼らは、大きな船に乗っていたのですが、氷山にぶつかって、沈み始めた。救命ボートは少ししかなくて、もし彼らがそれに乗ったら、他の人が死んでしまう。そんな中で救われたいとは思わないので、この女の子を抱いて、目をつぶった。すると誰かが「主よみもとに近づかん」という歌を歌いだした。

 

どうやら、この人たちは、タイタニック号の犠牲者らしい。
実は、ジョバンニの目の前に座っているカムパネルラも、ケンタウル祭で友だちが水の事故に遭い、その友だちを助けるために、自分が犠牲になってしまったのです。人の幸せのために、カムパネルラもひとつの決断をして、その行動をし、その結果、ずぶ濡れで、この汽車に乗っているのでした。

 

カムパネルラがジョバンニに、話しかける場面があります。

 

「ジョバンニ、お母さんは、ぼくのことをゆるしてくださるだろうか。」
ジョバンニは質問します。「なぜそんなことを言うの。」
カムパネルラの答えは、「僕はお母さんが幸せになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、お母さんのいちばんの幸せなんだろう。」
ジョバンニは答えて「きみのお母さんは、きみがいるっていうことだけで幸せだよ。お母さんって、そういうものだと思うよ。」
カムパネルラは「ぼくわからない。けれども、だれだってほんとうにいいことをしたら、いちばん幸せなんだね。だからお母さんは、ぼくをゆるしてくださると思う。」
ジョバンニは「だいじょうぶだよ、カムパネルラ。きっとゆるしてくださるよ。」
カムパネルラは、「そうだね、ジョバンニ。ありがとう。ぼく、これで安心した。」
カムパネルラは、なにかほんとうに決心しているように見えました。

 

その後、夢から覚めたジョバンニは、カムパネルラが本当に友だちを助けるために犠牲になったことを知るのです。終わりの方で、ジョバンニの決心の言葉が出てきます。

 

「カムパネルラは、あの女の子たちと同じように、人の幸せのために死んだんだ。カムパネルラ、ぼくはきみと二人で乗った銀河鉄道の旅を忘れないよ。【略】ぼくもカムパネルラのように、みんなのために、きっとほんとうの幸せをさがしていくよ。」このような話でした。

 

カンパネルラは、この世に生を受けて、一番好きなお母さんが幸福になれることを考えていたのでしょう。その答えは、最初にジョバンニが言ったように、親の近くで暮らしているだけで親は幸せを感じるものなのでしょう。しかし、いつまでも親の近くに居られないこともある。そして、自分の命を投げ出さなければならない時もある。そういう問題でしょう。

 

自分を産んでくれた母親より先に死ぬ、というのは子どもにとっても親にとってもつらいことです。しかし、それでも親が、自分を産んでくれたことを幸せに感じてくれる。納得してくれることがあるはずだ。ジョバンニの友だち、カムパネルラは、それを決断した時、母親が悲しむだろうか、と考えていたのでしょう。しかし、それでも、どうしても自分の命を投げ出さなければならない時があることを感じて、生きていたのだろうと、思うのです。

 

今日の福音書には、『15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』いう聖句がでてきました。

 

そして、それに関連して、銀河鉄道の夜の話を読んでいると、また、私が今から50年くらい前、小学生の時、家の近くにあった、福音派の教会の日曜学校で覚えた、最初の聖句。ヨハネの手紙一3章16節を思い出しました。口語訳でした。

 

「3:16 主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」

 

私は小学生の時、最初にその言葉を学んで、恐ろしいことだ、と思いました。銀河鉄道の夜に出てくるカンパネルラは、架空の小説の中の少年です。しかしこれを書いた宮沢賢治は、クリスチャンではなく、浄土真宗の信徒だったそうですが、このような生き方と言うか、死に方を考えていたのでしょう。

 

お話の最後に、ジョバンニの言葉として、言わせていることは、宮沢賢治の生きるモットーだったのではないかと思いました。

 

「ぼくもカムパネルラのように、みんなのために、きっとほんとうの幸せをさがしていくよ。」

最初に言うべきだったのかもしれませんが、ジョバンニという言葉は、イエス様の弟子ヨハネ、また福音書を書いたり、手紙を書いたヨハネのイタリア語の名称です。ヨハネの福音書や手紙が教える愛の教えは、銀河鉄道の夜の物語の証言者、ジョバンニと重なるのです。

 

そして、もうひとつ、最初に挙げた聖句のことを繰り返します。
エフェソの信徒への手紙2章10節。それの口語訳ですが、これも私が日曜学校で教えられた言葉です。

 

『わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。』

 

これは、私たちが何のために生まれて、何をして生きるか、アンパンマンの問いへの答えのように、明確に答えてくれているように思えます。

 

友のために自分の命を捨てること、これ以上の愛はない、と教え、私たちのために命を捨ててくださったイエス様に倣うようにと、イエス様の弟子であるヨハネは私たちに勧めます。また、たくさんの手紙を書いたパウロは、私たちが神様の作品であって、良いことをするように私たちを造り、また良いことをできるようにその仕事を備えてくださっている、とも言っています。

 

命を捨てられるかどうかは、その時の神様の導きによるかもしれませんが、他の人の痛みを自分の痛みのように感じながら生きてゆけるものでありたいと思います。