聖霊降臨後第10主日「安心しなさい。私だ。」マルコ6:45-52(2018年7月29日)

父と子と聖霊の御名によってアーメン

 

    酷暑の夏です。モーセに率いられ、エジプトを脱出し、酷暑の荒れ野を40年間さまよい続けたイスラエルの人々を思い起こします。また中国地方の大雨による被害、台風と神は私たちに次々と試練を与えられます。その試練に意味はあるのでしょうか?私たちはその試練をどう乗り越えていけば良いのでしょうか?

 

    今日の福音書は先週の「5千人の給食」に続くものとして記されています。
 イエスは男だけで5千人の人々に食事を準備され、分かち合うことの大切さを教えられました。その後、イエスは、弟子たちをガリラヤ湖畔のベトサイダという町で休ませることにされました。弟子たちを先に舟に乗せ、ご自分は残って群衆を解散させて、静かに祈るために一人で山へ入って行かれました。

 

    舟の中の弟子たちは、ガリラヤ湖特有の突風に逢い、なかなか舟が先に進まないので、四苦八苦していました。そこへ、イエスが湖上を歩いてこられたのです。弟子たちはびっくりして大声をあげます。イエスをみて幽霊だと思ったのです。イエスは「私だ。安心しなさい。」と弟子たちを落ち着かせて、舟に乗り込まれると風は静まったのでした。
 弟子たちは、パンの奇蹟の意味を理解せず、不思議な出来事だけが頭にあり、イエスが妖怪ではないかと思っていたのでした。

 

    今日の聖書の箇所を読みながら、私たちの生活のあり方を考えさせられます。私たちは苦しいことが起きるとつい、この状況をひっくり返すような奇蹟がほしいと願います。

 

    経済的に苦境に立たされたとき、愛する人を失ったとき、病気やけがをしたときなど様々な苦しいことが私たちの周りで起こります。

 

    この苦しみの中で、つい、私たちは奇蹟が起こるように望み、祈ります。そして、奇蹟が起こらなければ神を恨んでしまいます。

 

    私たちが祈るのは奇蹟ではなく、「神さまが私と共にいてください。神さまの御心のままに。」と全てを受け入れて祈ることの大切さをイエスは語っておられるのです。

 

    そのように祈るとき、神はイエス・キリストを通してお答えになるのです。「安心しなさい。私だ。恐れることはない」
 
 今日の使徒書では「エフェソの信徒への手紙」が読まれました。
この手紙の冒頭では、パウロからの手紙を思わせるような書き方になっています。しかし、この手紙は、パウロ亡き後、パウロの弟子たちによって書かれたことが明らかになっています。
 初期のキリスト教徒にとって、様々な苦しみがありました。ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)からは追い出されました。当初、クリスチャンとして行動を共にしていたユダヤ人たちの中には、ユダヤ教に戻る人も出てきました。そういう危機的な状況で、異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンは一致団結すべきだということで書かれたのが「エフェソの信徒への手紙」です。

 

    「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」

 

    と、一つになることの大切さ、柔和で謙虚である事、平和の絆で結ばれることの大切さ、私たち一人ひとりに賜物による恵みが与えられていることを伝えています。このことは現代の私たちの教会でも当てはまります。

 

    この使徒たちの、苦しい中での宣教活動も「安心しなさい。私だ。恐れることはない」との、イエスの言葉に支えられていたのです。
 私たちも苦しいときに、奇蹟を願うのではなく、「御心ならば」と神に祈る時、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」とのイエスの言葉が聞こえてきます。
 全てを受け入れ、神に委ねる時、私たちは神の癒やしを直接感じることが出来るのです。痛みや苦しみの中にあっても「安心しなさい。私だ。」と、主イエスがいつも共にいてくださることを感じることが出来るのです。

 

    礼拝を続けましょう。