聖霊降臨後第11主日「しるしとしてのパン」(小林史明司祭)(2018年8月5日)
2週間前、わたしたちはマルコによる福音書に出てくる、5つのパンと2匹の魚で、男だけでも5千人の人々が満腹した奇跡物語を読みました。そして、先週は、また弟子たちが舟に乗って、湖に出るのですが、逆風で困ってしまう。その時、イエス様が湖の上を歩いて来られて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われるのですが、弟子たちは驚いてしまいます。そして締めくくりの言葉が、「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」と書かれています。
イエス様が少しのパンと魚で大勢の人を養ったことも、湖の上を歩かれたことも、弟子たちには、出来事の意味が理解できなかった。それは心が鈍くなっていたのが理由だと結論付けているのです。
その鈍くなった心を、鋭くするためでしょうか。今日から8月中の4回の日曜日は、これまでのマルコによる福音書ではなく、ヨハネによる福音書を読むことになっています。これはヨハネによる福音書に出てくる、「五千人に食べ物を与える」話と「湖の上を歩く」というふたつの奇跡物語に続く所、「イエスは命のパン」と「永遠の命の言葉」というイエス様の長い説教を少しずつ読むことになるわけです。
今日の福音書の最初には、大勢の群衆がイエス様を捜し求めている姿が描かれています。しかし、イエス様は、この群衆から離れたかったのです。群衆がイエス様に期待していたものと、イエス様が群衆に示したかったものとの間には、大きなギャップと申しましょうか、すれ違いがありました。イエス様は、その誤解が、簡単に解けるとは思えなかったので、人々の思い違いを考え直させるために、頭を冷やしてもらいたかったのだろうと思います。人々は、イエス様に何を期待していたのでしょうか?
みなさんは、ご存知と思いますが、この五千人を養った奇跡を起こすと、ヨハネによる福音書では、その結末にこのような言葉が出てきました。
ヨハネ6章15節『イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。』
集まった人々は、自分たちの空腹を満たしてくれる王様、政治的な指導者を期待していたのでしょう。人々は、目先の自分の利益ばかり考えて、指導者を求めていたと思われます。
そのことと関連があるのでしょう。今日の旧約聖書は、出エジプト記でしたが、同じように、政治的指導者を期待する民衆の気持ちが、はっきりと描かれていました。
モーセに導かれたイスラエル民族は、エジプトでの奴隷生活に別れを告げて、荒野に出たのですが、食べ物がない、という問題に突き当たりました。そして、民衆は不平を言います。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」
人々は、食べ物を求めて、モーセやアロンに従ったのであって、モーセたちが人々の空腹を満たしてくれないのなら、エジプトの奴隷生活の方が、ましだった、と言いたいのです。
モーセたちの周りに集まった人々には、自分たちの目に見える、「もの」しか頭にはありません。神様が、朝はマナ、夕方はうずらを与えてくださったのですが、与えてくださった神様の気持ちなんか考えていない。何をくれたか、ということだけが問題になってしまうんですね。」
でも、この時、神様が食べ物を与えられた目的は、人々の期待とは別のところにありました。そのことが、はっきり書かれているのが、今日の旧約聖書、出エジプト記16章12節です。
16:12 「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」
モーセたちを導いた神様は、荒れ野で人々を満腹させることで、その導いた方が彼らの神、主であることを知るだろう、と思われたのです。ところが、彼らは、満腹することだけが目的で、その出来事の背後にある神様の愛には気づかず、後になっても食べ物のことで、不平を言うことになりました。出エジプト記の続編である、民数記11章あたりでは、また、同じ不平の繰り返しです。「肉が食べたい。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうり、メロン、たまねぎもあったが、今では、どこを見回してもマナばかりで、何もない。」と言うのです。
苦しい時に助けて下さった方への信頼があれば、少々辛くても共に歩んでゆく、という結論へ神様は人々を導きたかったのでしょう。ところが、このような、神様の愛情に対する人々の無理解を、今日の福音書でも、イエス様が指摘しておられます。26節の言葉が大切だと思います。
『はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。』
印象に残るのは、「しるし」という言葉と「パン」という言葉です。
ヨハネによる福音書は、奇跡のことについて、「しるし」という呼び方をしています。ここでは、増えたパンそのものが「しるし」なんですが、でもその「しるし」というのは、パンそのものを指しているのではありません。それ以上の意味を持ったものだ、ということがおわかりでしょうか?
たとえば、誰かに大変世話になったので、お礼をしたい、と思って、何か贈り物をすることがあります。「これは、お礼のしるしです。」と言って、その贈り物を渡します。
受け取るのは、お菓子か、おかずになるものか、なにかわかりませんが、目に見える「お菓子」とか「おかず」が大切なのではなく、それを感謝の気持ちを表して贈ってくれた人の思いが大切なのです。
ところが、わたしたちは往々にして、「その贈り物」にだけ目が行き、それだけを喜び、贈り主の気持ちを考えないということがあるのではないでしょうか。
神様は、天からのマナとウズラのしるしによって、「わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」と言っておられるのです。
エジプトの王様ではなく、荒野を導く神様が、どんな時にも共にいることを、このしるしによって確信するだろう、と言われているのです。そして、イエス様の、5千人を養ったことも、また湖の上を歩くことも、このしるしによって、神様が人々と共におられることを確信してほしいのです。
わたしは、イエス様の五千人の奇跡物語を通して、神様は、ただ人々が食べ物に困っているのを助けるだけではなく、神様があなたのことを見守っていてくださっているんだ、それをこのしるしを通して悟りなさい、と言っておられるように感じるのです。
1か月前、7月1日に鹿児島に礼拝のために来ましたが、その前日、私は宮崎でお葬式をしました。亡くなったのは延岡の男性信徒ですが宮崎に住んでおられました。その方の連れ合いの人が小学校1年生の娘さんと一緒に6月10日の日曜日に教会に来られて、御主人の病気が重いことを話されました。そして3週間過ぎた6月30日がお葬式でした。私は二日に1回くらいの間隔で訪問していました。
お葬式も終わって、斎場から教会へ送ってくださる時、私にお礼の封筒を渡されました。その中にお金が入っていたのですが、封筒の裏に文章が書かれていました。
「ありがとうございました。先生がいてくださったので、心がラクになれました。感謝いたします。はるみ」という文章でした。
私は頂いたお金にも感謝でしたが、お礼の封筒にこのような文章が書き添えられていたことに、感動しました。私も少しは役に立ったか。お金よりも連れ合いの方の気持ちがうれしかったのです。
私たちは、いろんなものを神様や人々から頂いていますが、頂いたそのものよりも、それに込められた気持ちを推し量るものでありたいと思います。