聖霊降臨後第13主日「弟子の覚悟」ルカ14:25-33 (2019年9月8日)

父と子と聖霊の御名によって、アーメン

 

    台風13号は過ぎ去りましたが、まだ台風15号が関東地方に向かっています。なかなか台風一過の季節にはなりませんね。
もう少しこの暑さをしのげば、神様は恵の秋を私たちに与えて下さると思います。

 

    今年も19名の皆さんの長寿をお祝いすることが出来ますことを神に感謝します。最高齢は101歳の市来カツさんです。肝属郡にお住まいですので、本日はお出でになりませんが、次は95歳で、禰寝さん、徳永さん。御領さんがおられます。80年の皆さんの歴史の中には戦争という大きな試練があったのですが、皆さんその大きな試練を乗り越えてこられたのです。それは神様のみ心でもあったのです。戦後の混乱の中でも信仰を貫かれてこられたのです。どうか、若者達にもその体験を語り伝えて下さい。

 

    さて今日の福音書では、主イエスの弟子になる覚悟について語れました。福音書を読み進む毎に、主イエスの十字架が近づいてきます。主イエスにとって弟子達や民衆と語り合う時間が少なくなっていくのです。伝えておきたいことはたくさんあるのです。救いの必要は人々もたくさん残されているのです。主イエスの言われる事が厳しさを増していきます。残された時間が無いのです。主イエスは真剣に厳しく語られるのです。

 

   今日の福音書では主イエスは自分の弟子になりたい者は覚悟が必要であると、次のように語られます。
「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の(重たい)十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」

と厳しい条件を示されます。
「自分を愛するように隣人を愛せよ」と言われた主イエスの言葉とは思えない厳しい言葉です。

 

 当時のユダヤ教の師弟関係と、主イエスとの師弟関係の違いについて考えてみましょう。

 

    当時のユダヤ教では、弟子が師事する師を選んでいました。しかし主イエスは自分で弟子を選ばれました。主イエスが弟子として選んだ人々の中には,ユダヤ教のラビ(教師)が弟子にしたくない人々がいました。ユダヤ教から締め出されていた取税人、ガリラヤの無学な漁師、異邦人の支配に抵抗する熱心党に属する人たちです。
 また、ユダヤ教のラビは,女性には教えませんでしたが,主イエスは女性を個人的に教えられました(ルカ10:39)。そのため多くの女性が男性の弟子たちとともに主イエスに従っていました(ルカ8:2,3)。

 

    ユダヤ教ラビの弟子は、修業期間を終えると師から独立し,自分がラビとなり弟子をとりましたが、主イエスの弟子は,自分が弟子をつくることはありませんでした。一生、主イエスを師とし、従ったのでした。そのためには,自分の家族、財産、さらに、自分のいのちまでもささげることを求められたのでした。主イエスの弟子となるということは,師の教えに対する信奉ではなく,師である主イエスに無条件に献身することだったのです(マタイ10:37‐39,ルカ14:26‐33)。

 

    主イエスの弟子となるためには,師とともに生活し,師に学ぶだけでなく,師とともに神のみこころを行う働きをする必要がありました。主イエスは,御自分が父なる神から与えられた務めに弟子たちを参加させ,弟子達を各地に派遣されました(マタイ10:7,8)。弟子たちは神の国実現のために、人間をとる漁師となるように派遣されたのです(マルコ1:17)。この働きにたいしては、師である主イエスと同じように、反対や迫害に遭うことが予期されていました(マタイ10:16‐25,ヨハネ15:18‐21)。
 これらのことを全て考えた上で、弟子としてついてくる「覚悟」はあるのかと、今日の福音書で主イエスは語られたのです。
実際にこれから起きる様々なことを「覚悟」しなさいと言われるのです。

 

    「弟子になる前に衝動的にならずに、よく考えなさい。、塔を建てる人のように、完成させるのに十分な費用があるかよく考えなさい。敵と戦う王様が自分の力と敵の力とを分析して考えるようによく考えなさい。途中で諦めることのないように、よく考えて私に従いなさい。」 と言われるのです。

 

    私たちは先人への迫害があったため、今迫害のない世界で信仰生活を送ることが出来ます。信仰的には緊迫感のない世界に住むことが出来るのです。しかし、主イエスが望んでおられるのは、その中で安閑とするのではなくて、「もう一度、原点に戻りなさい。もう一度覚悟をし直しなさい。」と言っておられるような気がします。
 
 今、私たちは「若い人が礼拝に出席しない」と嘆いています。 それに対して主イエスは「若い人が集まれる教会を造る覚悟はあるのか?」と厳しく言っておられる気がします。
主イエスが私たちへ与えられた大きな課題ではないでしょうか?
私たちも覚悟をするときです。