聖霊降臨後第14主日「迷える1匹の羊と残された99匹の羊」ルカ15:1-10(2019年9月15日)

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 

    まず台風15号で被害を受けた関東地方の皆さんの苦しみや悲しみが癒やされますように祈ります。テレビで見ますとまだまだ被害の全貌が確認されていないようです。台風の力の大きさが分かります。神が私たちに与えられる試練として、祈りながらこの問題を考える必要があります。

 

    さて、皆さんは最近物忘れはどうですか?。捜し物で半日が過ぎると言う方もおられるかと思いますが、今日の福音書はその捜し物の話です。
 主イエスがエルサレムへ向けて旅を続けられている最中に、徴税人や罪人達が話を聞くために集まってきます。しかし、またもや、ファリサイ派の人々や、律法学者達が近づいて来て「この男は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と嫌みを言います。
 そこで主イエスはたとえ話で、御自分がこの世に来られた目的を分かりやすく語りかけられます。

 次のようなたとえ話です。100匹の羊を飼う羊飼いが1匹の羊がいなくなったことに気がつきます。その時、羊飼いは99匹を野原に残したまま、行方不明になった1匹を探しに行くという話です。
 このたとえ話は当時のイスラエルの人々には考えられない話でした。「この男は、常識を知らないで、なんて馬鹿な話をするんだ」という思いで聞いたことでしょう。99匹を野原に残して1匹の羊を探しに行くと言うことは、とても考えられないことだったのです。残した99匹が野獣から襲われる可能性があったからです。したがって1匹がいなくなったときには、羊飼いは大きな決断をしなければならないのです。99匹を危険にさらしても1匹を探すか、99匹のために1匹をあきらめるか?当時の常識的な答えはもちろん1匹をあきらめるでした。
 しかし、この羊飼いはあえて1匹を探す方を選んだのでした。そして、とうとうその1匹を見つけ出すことが出来たのでした。残りの99匹も安全だったのです。
 ではなぜ、リスクを冒してまで、この羊飼いは1匹を探しに行ったのでしょうか?それはその後の箇所を読めば分かります。
「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
 
 この譬え話の「迷った1匹の羊」は、道に迷ってしまった罪人を表しています。そして「羊飼い」は主イエス御自身のことを表しています。
 当時の罪人は刑法上の罪を犯した人だけではなく、障がい者、取税人、神殿で罪の赦しのためのささげものが出来ない貧乏な人、混血の人、未亡人、重い皮膚病の人、親のいない子どもたち、など社会の底辺で生きる人たちのことでした。律法を守れないことによる罪のために、そう言う状況になったのだと考えられていました。
 主イエスはファリサイ派や律法学者に皮肉をこめて「99人の正しい人」と言われました。自分たちこそ正しいと思っている人々より、社会の底辺で苦しんでいる一人の罪人が悔い改める方が大きな喜びであると言われるのです。そのために主イエスはその罪人とされた人々の側に行って慰められるのです。
 それに続く、なくした銀貨の話も同じように考えることが出来ます。なくした銀貨は罪人を現わしています。でも磨けば光り輝く銀貨なのです。罪が赦されれば輝くことが出来るのです。この女性は灯りを付けて家の隅々まで一生懸命捜すのです。探している女性は主イエスご自身です。
 羊飼いや、銀貨をなくした女性のように、失ったものを見つけた喜びを私たちも何度も味わった経験があると思います。それと同じように主イエスも、罪深い私たちが悔い改めた時、大変喜ばれるのです。
 この話を聞いて、主イエスのまわりに集まった、罪人とされた人たちはどんなに喜んだことでしょう。生きる事に大きな希望を持つ事が出来たのです。
 この事は現在を生きる私たちにも約束されています。私たちが苦しい時も、道に迷ったときも、道を探しているときも、主イエス・キリストの方から私たちを捜していただけるのです。
 さて私たちはこの99匹の羊と1匹の羊のどちらでしょうか?
 場面によっては、私たちは迷える1匹の羊になる場合も、99匹の側になる場合もあります。同和問題やハンセン病の問題についてもその事が言えるのです。私たちは99匹の側に立っているのです。1匹の羊のことなど見ようともしません。
 99匹の側に立ったとき、迷える1匹の羊を生み出した責任が99匹の側にあるのです。一人の人間が人間として生きにくい社会を作り出している責任があるのです。
 私たちも主イエスの行いに学び、荒れ野でさまよっている人々のことを思い、それらの人々を孤立させるのではなく、共に歩んでいく責任があるのです。 

 

    礼拝を続けましょう。

ムリーリョ:善き牧者としての幼児キリスト