聖霊降臨後第16主日「富の再分配」ルカ16:19-31(2019年9月29日)

父と子と聖霊の御名によって  アーメン

 

    昼間の暑さはまだ夏の暑さが残っています。 朝晩はずいぶん秋らしくなってきました。読書の秋、芸術の秋、スポーツの秋、食欲の秋、何かをやってみたくなる秋です。

 

    このところ福音書では理解が難しい「富み」に関する譬え話が続いております。本日の譬え話もその一つではないでしょうか?

 

    本日の福音書の中には二つのテーマが盛り込まれています。
まず、第1のテーマは「富んでいる者の社会的責任」についてです。それを明らかにするために主イエスは「富んでいる者と貧しい者の死後」について語られます。主イエスは当時誰もが知っている因果応報の物語になぞらえて語られます。

 

    金持ちの家の前でごみをあさりながら生活しているラザロという貧しくされた人がいました。このラザロという名前には「神は助ける」という意味があります。ラザロは死後、神の国でイスラエルの人々の先祖であるアブラハムのそばで生活しています。一方、ラザロの名前を知っていながら、生前、何の手助けもしなかった金持ちは「陰府(よみ)の国」 に行くことになります。
    「陰府の国」とは私たちの死後に、霊魂が一時的に留まる場所と言われています。主イエスは、 十字架上で亡くなられた後、復活までの三日間、「陰府の国」に行かれました。したがって「陰府の国」は地獄ではありません。この金持ちは地獄に行ったのではありません。
    今日の譬え話をよく読んでみると主人公はラザロではなく、金持ちの方です。ラザロについては貧しかったと言うことだけでラザロという人物については詳しく述べられていないことでも分かります。

    つまり今日の譬え話の第1のテーマは「富んでいる者の生き方」がテーマになっています。
    生前、金持ちはラザロに門の扉も開けようとしませんでした。また一杯の水さえも与えようとしませんでした。名前は知っていても、おそらく声すら掛けたこともないでしょう。 この事を主イエスは問題にされているのです。再三にわたって、特に「ルカによる福音書」では富の用い方について指摘がなされます。それほど主イエスの時代の貧富の差は厳しいものがあったと考えられます。
    これらの状況から主イエスは 「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と隣人にたいする愛を説かれるのです。

 

    主イエスは、この金持ちがラザロに対して、門を閉めていたことの問題をきつく指摘されるのです。この金持ちは門を開けるべきだったのです。そのことを分からせるために「神の国」と「陰府の国」の間に渡ることの出来ない深い淵を造られたのです。
    ラザロを閉め出した門は金持ちとの大きな湖、裂け目だったのです。そして今、金持ちは自分がしたのと同じように、ラザロとの間に大きな淵が出来てしまったのです。

 

    後半の第2のテーマは、「復活の主イエスをどのように理解するか」と言うことがテーマになっています。
    金持ちは自分の様に苦しまないように、残りの5人の兄弟に伝えて欲しいとアブラハムに頼みます。アブラハムは「おまえの兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と言います。「モーセと預言者」とは律法を頑なに守ろうとするファリサイ派を指しています。すなわち、アブラハムはファリサイ派の人々に頼んだらどうかと言うのです。

 

    金持ちは「死んだ者の中から誰かが兄弟の所へ行ってこの事を伝えれば悔い改めるでしょう」とさらに頼みますが、アブラハムは「モーセと預言者に耳を傾けない者つまり、 モーセと預言者の真の思いを聞き入れない者には、死者のなかからよみがえる者 (つまり主イエス) がいてもその言うことを聞き入れはしないだろう」とファリサイ派の人々の復活を受け入れない傲慢さと、彼らが貧しい人々を隣人としないことを厳しく非難されるのでした。

 

    さて今日の福音書を読まれてどうですか?
    私はそんなに経済的には恵まれていないから、私はどちらかと言えばラザロの方だから大丈夫。
    そうでしょうか?現在の経済状況をみると国内では雇用の問題が大きな間題になっています。若者がなかなか正社員になれない。企業は利益を求めて海外へ進出をしていく。若者も一家の働き手も職場がますます無くなっています。
    世界に目を向ければ北と南の経済格差はいっこうに縮まらない。その事がきっかけで紛争が起きています。
    旧約聖書の時代には、経済対策として50年ごとに借金を帳消しにし、人に渡った自分の土地も戻されるという「ヨべルの年」を定めました。しかし、これはイスラエル民族のためだけでした。(実際に実施されたかも不明です。)
    この経済状況の中で、現代にもラザロはいるのです。現在の経済間題を解決するのは難しいのですが、現実に私たちのまわりには現在のラザロが私たちの門の前に座っているのです。
    この金持ちはラザロに何をすべきだったのでしょうか?
    この状況の中で、わたしたちクリスチャンの果たす役割は何でしょうか?
主イエスは分かちあいの重要性を言っておられます。神さまから頂いた賜物(これはみんなに与えられている)をどのように用いるかが問題なのです。経済活動の中から得た富の再配分はもちろん重要です。しかしそれと同時に重要なことは、一杯の水、一言の優しい言業を優しい笑顔と共に、分かち合うことの大切さを主イエス・キリストは言っておられるのです。

 

    作家、遠藤周作は「死海のほとり」で奇蹟を起こせない主イエス・キリストを描きました。主イエス・キリストは社会的に差別されている人々のところで、ただ共に泣かれるだけなのです。奇蹟を期待している人々はがっかりします。私たちの望んでいる主イエス・キリストはどんな方でしょうか。いつもそばにいて励まし、悲しいときには共に涙してくださる方ではないでしょうか。
    私たちも、私たちの隣り人のそばに行き、共に祈り、励ましあい、共に涙する関係を持ちたいと思います。
 
    これから年末に向けて様々な募金活動が始まります。良く見極めながら「富の再分配」に協力できたら良いですね。

 

金持ちとラザロ