聖霊降臨後第17主日「からし種一粒の信仰があれば」ルカ17:5-10(小林史明司祭)(2019年10月6日)

今日の福音書は、「からし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木が海に根をおろす」という、どう考えても不可能なお話と、昼間忙しく外で働いた僕が、帰ってからも主人のために食事の用意をして、クタクタになっているのに、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」と言いなさい、という厳しい教えが一緒になっているところです。この前まで、失った羊、無くした銀貨などのたとえや、関連して放蕩息子の父親とか不正な管理人を雇った主人の寛容さを学んできましたし、自分の家の前に横たわっているラザロに親切にしなければならない、という主人のありかたを学んでいたのに、今日の主人には、そんな暖かさが感じられません。

 

今日の福音書の直前には、17章1節から4節までですが、兄弟が自分に対して一日に罪を七回犯して、そのたびに悔い改めたら、ゆるしてやりなさいという、大変寛容な態度で生活することを教えておられるので、それまでの、放蕩息子の父親や不正な管理人の主人の優しさに通じるように思われたのですが、今日のところでは、一転して、どう考えても不可能な話や、厳しい主人の話になっています。

 

先ず、からし種のことを考えてみましょう。

 

からし種について、わたしたちは別のところで、「からし種のたとえ話」というのを知っています。イエス様は、神の国が知らないうちに大きく成長することを「からし種やパン種」(ルカ13:18など)を例に挙げて話されました。

 

からし種というのは、どうも2種類あって、イエス様が言われたと思われるものは、「くろがらし」と言って、アブラナ科に属するもので、人の手で栽培されたようです。しかし、今日イスラエルで、からし種の木と言われているのは、野生のもので、こちらの方が、くろがらしの種の100分の1くらい小さいので、たとえに使うには、くろがらしの種よりいいのかもしれません。しかし、この野性のからしは、ナスの仲間であって、元来南アメリカが原産だそうです。イエス様の頃、聖地にはなかったらしい。

 

まあ、しかし、いずれにしても、からし種というのは、けし粒ように小さなものなんですが、それには大きくなる力があって、一年で2~3メートルの高さまで成長し、空の鳥が停まれるくらいになるんです。私も2か月エルサレムに居た時、城壁の周りに生えている野生のからし種の木をよく見ました。

 

私たちは「からし種」と言われると、「あの小さな一粒の中に大きな力がある」ということが、すぐに頭に浮かんでしまいます。それが私たちの一般的な「からし種」のイメージです。

 

しかし、今日のからし種の話は、その一粒に力があるとか、大きく成長するとかという話ではないようです。イエス様がこの話をされたきっかけは、使徒たちが「わたしどもの信仰を増してください。」と言ったことからです。どうして、信仰を増してほしいのか、このルカによる福音書では不明ですが、同じように、『からし種一粒ほどの信仰があれば』という言い方をイエス様がされている、マタイによる福音書17章の方を見ると、どうもお弟子さんたちは、てんかんという病気の少年を、自分たちで治そうとしたけど、だめだったようです。

 

それで弟子たちはイエス様の所に来て「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と質問しているのです。これに対して、イエス様は「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」このように答えておられます。

 

私には、このイエス様の説明は、大変相手をつまずかせるような言葉だと思えてしかたありません。わたしたちがどんなに願って努力しても、その願いがかなわなかったら、「それはお前の信仰が薄いからだ。」という言葉で片付けてしまうのでしょうか?

 

弟子たちは、イエス様から、「信仰が薄いからだ。」と言われたので、自分たちにも力ある業を行えるように、「わたしどもの信仰を増してください。」と言ったのは当然のことでしょう。誰だって、もっと強い信仰が持てるように、そして困難なことにも耐えて、立ち向かえるようにと、願うのは当然のことだと思います。

 

しかし、この後、イエス様は、「からし種一粒の信仰があれば」と言われ、「その結果は、山が動いて、別の所へ行ったり、海に入ったりする。庭に植えられた桑の木が、そこを抜け出して、海に根を下ろす。」と言われるのです。

 

これは何を言われているのでしょうか。今まで、山が海の中に入ったり、植えられた桑の木が自分でそこから飛び出して、海に根を張った話など聞いたことがありません。イエス様は、不可能なことを言われているのです。からし種一粒なんて、本当にちっぽけなものです。それほどちっぽけな、からし種のような信仰だって、山や木を動かす力がある、と言われるけれど、そんな信仰を持っている人はどこにもいないではありませんか。

 

マタイの福音書では、イエス様が「お前の信仰が薄いからだ。」と言われたんだから、イエス様にも責任があるのかもしれませんが、信仰を増してください、という要求自体が、私には、的外れの要求のようにしか思えません。信仰が「薄い」とか、信仰を「増やす」とかいうのは間違った議論だと思うのです。ここでは、もっと別のことが問題なのではないでしょうか。

 

ここで問題にしている信仰とはどんなものなのでしょう。その疑問に答えるために、イエス様は、今日の福音書の後半、主人と僕の話をされた、ということではないでしょうか。

 

畑から帰って来たばかりの僕に、主人は夕食の世話をするように命じます。僕は命じられたことを全部行なっても、僕は主人からほめられるようなことではないと言われます。当時の奴隷にとっては、あたり前のことです。(12章には、いつ帰るかわからない主人を待つ僕が褒められる話がありますけど)

 

イエス様は弟子たちに、「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果したら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」と言われます。信仰というのは、神様や他の人に威張れるようなものではないのです。私たちには、山や木を動かすような、からし種一粒の信仰もないのですから。

 

それでは、改めて考えましょう。信仰を持った人の生き方とは、どんなものなのでしょうか。それは人間に備わった能力などではありません。それは神様の言葉を素直に「信じる」ということではないでしょうか。主人である神様が、私に命じておられること、その御言葉を、素直に、忠実に行なうことが、何より大切な信仰なのです。

 

イエス様は、弟子たちに「お前たちの信仰は薄い」と指摘されましたが、イエス様が賞賛された信仰があるのを、皆さんはおご存知でしょう。

 

このルカによる福音書の7章の初めには、「百人隊長の僕をいやす」という奇跡物語があります。このお話は、今日のからし種と桑の木の話と似ていないでしょうか。ローマの百人隊長の部下が病気で死にかかっていました。その隊長は、何とかして部下を治してやりたいのです。しかし、外国人であり、ユダヤ人から嫌われているローマ兵の自分が、直接イエス様のような立派な方にお目にかかるのは、ふさわしくないと思って、ユダヤ人の長老たちをイエス様のもとへ使いにやりました。

 

イエス様一行が百人隊長の家に近づくと、また隊長は友達を使いにやりその友達は、頼まれた伝言をイエス様に話しました。「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」と言いました。

 

イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」つまり、信仰が賞賛されたのです。

 

使者を送った百人隊長は、「信仰とは、神様の命じられた言葉に権威があると認め、それに素直に従う事だ。」と理解していたことがが、イエス様には、その使者の言葉から十分わかったからです。

 

話を元に戻すと、イエス様は、こう言いたかったのではないでしょうか。弟子たちというものは、先生であるイエス様、もっと言えば、神様の命じられることを実行するのが務めであり、それは決して威張れることではなく、「しなければならないことをしただけです。」と言う程度の問題だということです。

 

さて、それでは、このような弟子たちが、具体的に何をするように、イエス様は命じておられるのでしょうか。それは、信仰の力によって、私たちが山や桑の木に命令して動かすのではなく、自分が桑の木になったつもりで、主人の命じられることを聞いて、海でも山でも、そこへ出かけてゆく僕になることが大切なんだろうと、今日の福音書から、感じられるのです。イエス様は弟子たちの指導者になりたいという傲慢さを反省させるために、からし種一粒の話をされたのではないでしょうか。

 

私たちも上に立って人々に命令するのではなく、主人の手足となって、人々の幸福のために奉仕することが求められているように思います。