聖霊降臨後第19主日「一杯の水」マルコ9:41(2018年9月30日)

父と子と聖霊の御名によって アーメン
 
 また大きな台風がやってきました。大丈夫でしたか?

 

    さてイエスの宣教活動もいよいよ佳境を迎えています。
 先々週の福音書では、イエスは「律法学者やファリサイ派の人々によって殺され、三日目によみがえる」ということを弟子たちに告げられました。弟子たちはその意味をよく理解出来ませんでした。しかし、イエスは自分がこの世を去った後のことを考えて、弟子たちにさらに福音を宣べ伝えられるのです。
 本日の福音書では、弟子のヨハネが「先生の名前を使って除霊を行っている者がいたので、私たちと一緒に弟子になるように言ったのですが、従わないのでイエスの名前を使って除霊するのはやめるように言いました」とイエスに報告します。
 それに対してイエスは「やめさせる必要は無い。私の名前を使って除霊した後に、私の悪口は言えないだろう。わたしに逆らわない者は私の味方である。私の弟子であるあなた達がのどが渇いているときに、あなた達に一杯の水を与える者は神さまから褒められて報酬が与えられるだろう」と今後の宣教のあり方について教えられたのでした。

 

    有名な人の名前を使って一儲けしようと考える人はどこにでもいます。その代表的なものはクリスマスやバレンタインデーですね。もはやクリスマスは国民的な行事になっています。イエスの誕生日であるという本当の意味はわからなくても、多くの人はケーキを食べてプレゼントを交換する日だと思っています。
 バレンタインデーにチョコレートを送る習慣は、チョコレートの売り上げのためにイギリスのチョコレートの会社によって考え出されました。そのお返しをするホワイトデーは日本で創り出されたものです。
 イエスは「こういうことをクリスチャンではないから止めるべきだと言う必要は無い、クリスマスやバレンタインデーを楽しんでいる人でキリスト教の悪口を言う人はいない。イエスを信じる者に反対しない者は味方である。」と言われるのです。

 

    弟子たちはイエスの弟子として活動する中で、だんだん閉鎖的になっていきました。イエスの活動を見て、多くの人々がつき従ってくるのを見て、自分たちも偉くなったような気がして、特権意識を持つようになってきたのです。その事をイエスは戒められたのでした。
 私たちもクリスチャンであることに誇りを持つが故に、閉鎖的になっていないか考えてみる必要があります。

 

    今日の福音書ではこの後、イエスの厳しい言葉が続きます。イエスに付き従うことは厳しいことでもあるのです。
 つまづかせる者、罪を犯させる者、つまり神との交わりから遠ざけようとする者への厳しい言葉が続きます。
 
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」
 
 この言葉を私に当てはめてみると、私の手足はなくなり、目もなくなってしまいます。そして、地獄に入ることになります。
 ここでの地獄は、日本の閻魔大王のいる地獄ではなく、私たちが神との関係を見失った状態のことを言います。

 

    イエスがこれほど厳しく言われるのは「マルコの福音書」ではここだけです。それほど、イエスは自分の亡き後のことを真剣に弟子たちに語られたのです。

 

    私たちの周りにもそれに似た状況があります。「一杯の水」を求めて居られる人々がいます。イエスは「それらの人々に水を与えることは、私にしたこと同じだ」と言われます。
 私たちも「一杯の水」を与える人でありたいと思います。