聖霊降臨後第25主日「収穫を分かち合うことの喜び」マタイ6:25-33(2018年11月11日)

父と子と聖霊の御名によって アーメン

 

    昨日は久しぶりのバザーいかがだったでしょうか?地域の人たちが教会に集い、親しい交わりが出来ました。信徒の皆さんの絆も深まりました。皆さんのご協力有り難うございました。

 

    さて、稲刈りも終わり、実りの秋を迎え、その収穫を感謝する礼拝を本日は迎えております。鹿児島県の今年の稲の作況指数は99で、平年並みと言うことです。今年も私たちに収穫の秋を迎えさせてくださった事を神に感謝したいと思います。

    また、今日は子どもたちの成長を神に感謝し、皆さんと共に祝う、祝福式も共に捧げたいと思います。子どもの数は年々減り続けています。15歳未満の子どもの数は、1950年に2943万人(総人口の35.4%)だったのですが、2018年5月には1553万人(12.3%)となりました。昨年同期より17万人減少したことが報告されています。
    聖書では、収穫感謝は、エジプトの荒野を移動式の天幕に住みながら過ごした40年間を記念して、「仮庵の祭」として祝われていました。(出23:16,34:22、レビ23:34~)。7日間続く盛大な祭りでした。
    現在の収穫感謝はアメリカでの出来事が起源とされています。1620年にヨーロッパから移住した人々が、見知らぬ土地で最初の作物を植えました。ところが、その年は寒波が到来し、ほとんど収穫がなく、多くの人が餓死しました。次の1621年には先住民からトウモロコシの栽培方法を教えてもらいました。その結果、たくさんの収穫があり、先住民と一緒に収穫感謝を祝うことが出来ました。このことが現在の収穫感謝祭の始まりだと言われています。

 

    さて今日の旧約聖書の日課では申命記が読まれました。申命記はイスラエルの民が、約束の地カナンに入る前に、神がモーセに語られた契約の書です。神はエジプトを脱出したイスラエルの民に、40年の間、荒野での試練をお与えになります。今日の日課では、なぜこの様な試練をお与えになったのか、その理由が示されます。
 かつて、イスラエルの人々は、エジプトで、奴隷として抑圧されていました。神の導きにより、先導者として任命されたモーセを先頭にして、ようやくエジプトから脱出できました。ところが、荒野での生活が始まると、すぐに食べ物のことで不平不満を言い始めます。そこで、神はモーセとアロンに言われます。「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」(出16:12)神はイスラエルの民に夕方には「うずら」を降らせ、朝には「マナ」を与えられたのです。この時のことを思い出して神はモーセに言われるのです。「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」
 食べ物も大切であるが、それと同じように大切なのは神の言葉であると神は言われるのです。荒野の40年の試練は、その事をイスラエルの人々に理解させる為だったのです。
    詩篇65編では、豊かな実りと羊の群れに感謝し、その実りをもたらした地を潤すために、神が雨を降らしてくださった事に感謝する詩篇が読まれました。
    旧約聖書ではイスラエルの民との契約として記されていますが、イエスは現在に生きる全ての国の人々と新しく約束をされます。それが先ほど福音書でお読みした箇所です。

 

    ここでイエスは「空の鳥を見よ、野の花を見よ。」と言われ、神の言葉を信じないで、日々の生活にあくせくとしている私たちに「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むなと言われるのです。
    「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。イエスの御言葉を信じて、私たちが『神の国』と『神の義』を求めるとき、神様は全てのものを私達人類のために準備して下さる」と言われるのです。

 

    では「神の国と神の義を求める」とはどういうことでしょうか?それはイエスが言われた最も重要な掟の中に明確に表わされています。
  イエス・キリストは律法の専門家から「掟の中で最も大切な掟は何か」と問われて「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ22:37)と答えられます。
  これが「神の国と神の義を求める」ことの意味なのです。「神の国」では隣人が互いに愛し合う国なのです。そして、それこそが神の言われる正義すなわち「神の義」なのです。「神の国」と「神の義」を私たちが願い求めると言うことは、収穫を分け合うことも意味しています。
 一見、私たちの周りには食料があふれているように思えますが、食料には偏りがあるのです。国内にはホームレスにさせられた人たちがいます。九州教区でも小倉、福岡、久留米の教会では支援活動が続けられています。
「神の国」と「神の義」を私たちが願い求め、収穫を分け合うことが出来たとき「神の国」は実現するのです。
    私たちも収穫を感謝すると共に、分け与える喜びを知り、神の言われる本当の収穫の意味を考えたいと思います。

 

    本日から「障碍者週間」も始まります。イエス・キリストの眼差しはいつも障碍などによって差別された人と共にありました。その眼差しは憐れみに満ちた眼差しでした。「憐れみ」はギリシャ語ではsplagcnizoma(スプランクニゾマイ)と言います。その意味は「腑のちぎれる思い」(マタイ20:34)です。イエスは障碍のある人を腑のちぎれる思いで見られ、その障碍を癒やして行かれました。私たちがイエスに倣って障碍のある人の側に、「かわいそう」ではなくて、「スプランクニゾマイ」の気持ちになるとき「神の義」を求めることになるのです。

 

礼拝を続けましょう。