聖霊降臨後第3主日「弟子の覚悟」ルカ9:57-62 (2019年6月30日)

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン

 

    さて、先週に引き続き、今日の福音書では弟子としての覚悟、クリスチャンとしての覚悟が語られます。
 イエスはいよいよエルサレムへ登られる決意をされます。エルサレムで自分の身の上に起こることは覚悟の上です。
 イエスの様々な活動をみてイエスに付き従う人々はますます増えていきます。その中のある人々はイエスの弟子になりたいと申し出ます。そこで「弟子になるための覚悟」について語られるのです。これは私たち自身の問題でもあります。
 イエスに付き従って来た3人が、宣教の旅をしておられるイエスにしたがって働きたいと申し出ます。
 しかし、イエスは自分にしたがうことは決して楽ではないことを告げられるのです。

 

    まず最初の人に、イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と言われます。すなわち、自分についてきても安心して寝る場所もないかも知れないがそれでも良いかと言われるのです。この意味はよく理解できると思います。

 

    二人目の人には弟子志願を受け入れて「では私に従ってきなさいと言われます。」しかし、その志願者は「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言い出します。そこでイエスは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」と言われるのです。
 この部分の意味がわかりにくいのです。
イエスが使っていたアラム語ではこの箇所は「ためらう者(メディーニン)に彼らの死者(ミティーフーン)を葬らせよ」という語呂合わせになっていました。このメディーニンが誤って死者(ミティー)となったのではないかと言う説もあります。この説に寄るならば、「イエスの弟子になるかどうかためらっている者はついて来なくて良いから死んだ父を葬りなさい」となります。
 また当時の人々にとっては、父母の死を看取ると言うことは大きな律法でありました。十戒にも汝の父と母を敬えとあります。父親の葬りをしないということは大きな律法違反でもあるのです。この事からイエスは私たちが律法に縛られるのではなく、律法を脱ぎ捨てることを言っておられると考えることも出来ます。

 

    三人目の人は「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」と言います。イエスはその人に向かって「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われます。今日の旧約聖書の箇所では預言者エリヤはエリシャを弟子にする時に、エリシャの希望を聞き入れて家族との別れの時を持つことを許します。しかし、イエスは私に従うと決めたのなら、家族のことより私の方を優先しなさいと言われるのです。

 

    この聖書の箇所は、昔からキリスト教が誤解される箇所でもあります。この聖書の箇所を指して「キリスト教は家族を大切にしない宗教だ。」と言う人もいます。
本当にそうでしょうか?
 イエスは宣教の旅の途中で息子の死に嘆き悲しむやもめを見て、はらわたがちぎれるほど悲しまれ、息子を生き返らせられました。そのイエスが家庭を壊すことなど望んで居られないのです。

 

    この言葉はイエスがエルサレムへの旅立ちを決意してから言われた言葉であることに注目する必要があります。イエスは御自分がエルサレムに行ったらどうなるかはご存知でした。そう言った緊迫した、いわば極限状態での発言なのです。

 

    またこの「ルカによる福音書」が書かれた80年代はクリスチャンにとっても緊迫した時代でした。61年頃パウロが殉教し、64年頃には皇帝ネロによるキリスト教徒への大迫害が起こります。ペテロもその中でローマで殉教しています。70年には、ようやく完成したエルサレム神殿がローマ軍によって破壊されます。クリスチャンであることが命がけの時代に、この「ルカによる福音書」が書かれました。この福音書を書いた人も極限状態にあったことが考えられます。

 

    それらのことを合わせて考えると、イエスが言われようとされたのは、次の事だったのではないかと思います。
「イエスに従い宣教活動を続けると言うことは苦しい旅を経験することになる。それはイエス亡き後に宣教活動を続けるときも同じ苦しい旅になる。イエスに従うと言うことは、古い律法に縛られるのでは無く、古い律法を脱ぎ捨てることである。イエスに従うことは古い聖書の言葉に縛られるのでは無く、イエスの発せられる新しい言葉に従うことである。」このことを言われたかったのではないでしょうか?
 
 イエスに付き従う覚悟とは「苦しみを乗り越えて、古い規則や言い伝えを脱ぎ捨て、イエスの語られる福音を信じていくこと」なのです。

 

    パウロはガラテアの信徒への手紙で
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」
  と霊の働きによる前進を呼びかけています。

 

 これからも皆さんと共に、イエス・キリストに従う覚悟を日々確認しながら、信仰生活を送りたいものです。