聖霊降臨後第4主日「名が天に書き記される」(2019年7月7日)

今から10年以上前のことですが、私は九州教区の青年たちと春にフィリピンまでワークキャンプに行っていました。最初の内は、日本の紹介をする資料などを作っていましたが、そのうちに、フィリピンのことを日本に伝えることを考えるようになりました。そして、「フィリピンの神話と伝説」という本を3冊ほど訳して、現在もホームページにアップしています。100余りのお話なんですが、そんな中で、印象深かったので、翌年それを紙芝居にして、逆にフィリピンでも子どもたちに話すようになった一つのお話があります。

 

「何故フィリピン人の鼻は低いのか」という、おもしろいタイトルでした。こんな話です。

 

昔々、地球に住む人々には鼻がありませんでした。彼らは顔の中央にあるふたつの穴を通して呼吸していました。

 

ある日、ホアンは彼の友人たちと遊んでいる間に、ぬかるみに落ちて、顔をぶつけてしまいました。彼が立ちあがった時、顔の真ん中に少量の泥がくっついていました。ホアンは、彼の顔から土の塊を取り除こうとしましたが、彼の努力は無駄でした。彼は友人たちに取ってもらうように頼みましたが、だれもうまくいきませんでした。ついに、ホアンはあきらめて、彼の顔に土の塊があることをよしとして、生活することにしました。

 

ところが時間がたつにつれて、ホアンは顔にできた土の塊のために、以前よりも顔立ちが美しく思われるようになりました。彼の友人たちは彼をうらやましく思うようになり、どうしてそうなったのか、彼らはホアンに聞きました。そこで、彼は、自分に起こったことをすべて彼らに話しました。ホアンの友人たちは、彼が行ったのと、正確に同じようにやってみました。しかし、悲しいことに、彼らには、顔の真ん中に土の塊をつけることはできませんでした。

 

それから、ホアンの鼻にも何かが起こりました。彼はある日、母のおつかいで出かけ、道を歩いていて、地面に倒れました。彼の顔にあった土の塊は、とれてしまいました!彼はあらゆる方法を使って、土の塊を彼の顔につけようとしましたが、無駄でした。

 

数週間過ぎて、ホアンと彼の友人たちは、一艘のボートが村からそんなに遠く離れていない海岸に錨を下ろしているのを見ました。最初は、彼らは見たものに興味を持ちませんでしたが、船乗りたちがたくさんの鼻を運んでいることを聞いて、ホアンも友人たちも、みんなボートに押しかけました。めいめいは自分のために鼻を手に入れました。近くの村の人々もやってきて、ただでもらえる、ということで、鼻の争奪戦になりました。

 

しかし、その話によると、フィリピン人は背が低く、速く走れないので、鼻を手に入れるのは最後になってしまいました。不運なことに、残った鼻は、ぺちゃんこなものばかりでした。それで、フィリピン人が手に入れた鼻は、ホアンも友人たちも含めて、ぺちゃんこなのです。

 

私は、この話を読んで、びっくりしてしまいました。だいたい、神話とか伝説とかは、特に自分たちの民族の起源を説明するお話では、自分たちが優れている、という話になるのに、どうして、こんな話を語り伝えてきたのか、不思議でなりません。

 

日本でも、「鼻が高い」という言い方が、いいこと、勝っていることのように考えています。フィリピン人は、スペインに統治されて、いつの間にか、西洋人のような鼻の高い人たちより、自分たちを下に見てしまう伝統ができたのだろうか。争奪戦で最後になった、ということと、最近の東南アジアの発展の中で、フィリピンだけが取り残されているような印象を受けるのですが、背が低く、走るのがおそいことをわざわざ書き出して、説明しているのは、自分たちに競争力がないことを、もうあきらめて、ある意味で、開き直っているようにも思えてしまうのです。競争心がないのがフィリピン人の特徴なのでしょうか。

 

この本は、お話のあとに内容把握のために練習問題が設定されていて、最後に3つの質問があるのです。

 

1 あなたは高い鼻の人を羨ましいですか?どうしてですか?
2 今日、低い鼻のある人たちは「鼻を高くする手術」で、彼らの鼻を「良く」しようとしています。この治療を、あなたはどう思いますか?
3 人を判断するのに重要なことは、何ですか?鼻の高さですか、性格ですか?

 

フィリピンが発展から取り残されている、というふうに私たちは考えるのですが、フィリピンが、周りの国々よりも勝っているものはないのだろうか。と思うと、アメリカの統治によって、みんなが英語をよく話すこと、そして、スペインの統治によって、キリスト教が根付いていることなどでしょう。

 

私は、今日の福音書で、イエス様が教えておられることを、フィリピンの人たちは、自分たちの伝説の中で、受け止めているのではないだろうか、

と思ったりしました。

 

今日の話は、イエス様が72人の弟子たちを伝道に派遣された時のことです。平和を告げ、病人を癒し、神の国が近づいたことを宣べ伝えるように指示されて、送り出すと、彼らは、うまくいったのでしょう。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」と大喜びで報告します。

 

イエス様は、ご自分が弟子たちにその権威を授けたから、そのようなことが起こったのだろう、と彼らの仕事の報告を受け止められました。しかし、「そんなことを喜ぶな。」と言われているのです。

 

今日の最後、20節
「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

 

ここで、イエス様が言われている「あなたがたの名が天に書き記されている」というのは、命の書と呼ばれるもので、この書物に名前を記された者は、最後の審判の時、救いに入れられて、永遠に神様と共に生きる、ということになっています。

 

この命の書については、旧約聖書の2番目の書物「出エジプト記」から、新約聖書の最後の「ヨハネの黙示録」まで、何度か登場してくる、ユダヤの伝統的なシンボルで、これに名前が記される、ということは、神様に憶えていただいていることを意味します。そして、教会は、人間が洗礼を受ける時、神様の所にある、命の書に名前が書き記される、と教えているのです。

 

鹿児島の教会では、アルファ・コースというキリスト教入門コースを経験しておられるので、聞かれたことがあろうかと思いますが、神様が私たちを愛していることを、面白いたとえで話していました。

 

自分には子どもがいるが、学校の学期の終わりに通知表を持ってくる。成績は立派なものじゃないけど、自分はいつも、子どもを抱き寄せて「おとうさんは、君を愛しているよ。フランス語ができないことなんか問題じゃない。」と、成績を気にしている子どもを安心させる、というのです。

 

子どもにとって、大切なことは、自分の成績を親に自慢することじゃなくて、どんな時にも、親が自分を愛してくれている、という確信です。それと同じように、クリスチャンにとって、大切なことは、イエス様によって、イエス様の十字架によって、自分は神様に愛されている、という確信が持てることが大事なのです。

 

今日の使徒書で、パウロは「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」と言っています。そして、命の書に記されて私たちが神様のものになっていることについて、パウロは17節で「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」という言い方で説明しています。

 

最初のフィリピンの話に戻りますが、どうしてフィリピン人は鼻が平べったいのか、という問題ですが、鼻の争奪戦の時、背が低く、早く走れなかったからだ、と物語は説明しています。何も誇るところがない、ということでしょう。

 

日本には「鼻を高くする」ということわざがありますが、これは、自分のことを誇る、ということですね。「性能のいい工業製品を作っている、」とか、「背が高く、走るのが速くて、一等賞になった、」とか、「悪霊を服従させることができる」とかは、自分を自慢していると同時に、他の者を見下している、傲慢な心が存在しているのです。そして、それを、イエス様はお嫌いになる。

 

「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」という言葉を、私たちは、もっと素直に受け入れることが求められているのでしょう。それぞれの賜物を誇るのではなく、神様の子どもにされたことを、本当に喜ぶ者になってほしい、ということでしょう。

 

フィリピン人には競争心がないかどうか、簡単に言うことはできないかもしれませんが、少なくとも、フィリピン人の鼻がどうして平べったいのか、という話を作った背景には、お互いが鼻を高くして、威張り合うのではなく、互いの弱さを認めて、そんな自分たちを愛してくださっている神様に感謝し、みんなと楽しく生きることを目指して、生きてほしい、という作者たちの気持ちが、あるように思えるのです。そして、それは、私たちが、聖書から、そしてフィリピンから学ぶべきことだろうと思います。