聖霊降臨日「聖霊のはたらき」使徒言行録2:1-11 (2019年6月9日)

父と子と聖霊のみ名によってアーメン

 

    梅雨に入り急に蒸し暑くなってきました。しかし、私達にとっては恵みの雨の季節です。喜んで受け入れたいと思います。

 

    さて本日の旧約聖書では使徒言行録で五旬祭の日の出来事が読まれました。まず五旬祭について簡単に説明します。
 旬は1ヶ月を上旬、中旬、下旬と3等分した10日間を意味しますので、5旬祭は五十日祭と言うことになります。何から50日目かというと、過ぎ越の日から50日目と言うことです。
 ギリシャ語で50を表すペンテコスタからとって、五旬祭をペンテコステとも言います。昇天日から数えると10日目になります。

 

    さてこの五旬祭の日の出来事を振り返ってみましょう。弟子たちとイエスの母マリアや兄弟たち、イエスを信じている人々120人ほどが、朝の9時頃、一カ所に集まっていると、激しい風の音が聞こえ、小さな炎が分れて現れ、集まった人の上に留まりました。すると人々は突然、外国の言葉で語り始めたのです。

 

    当時のエルサレムには、紀元前587年にイスラエルが滅ぼされて、世界中に散り散りになったユダヤ人が、故郷に帰ってきていました。この物音に、これらの人々も何事が起こったのかと近づいてみると、自分たちがかつて住んでいた国の言葉で、弟子たちが話しているのが聞こえてきました。彼らは「私たちの言葉で神の偉大な業を語っている」と驚きました。
 さらに、この後、集まった人々の前にペテロと11人の弟子たちは立ち、この聖霊の働きについて説教をします。「今、朝の9時だから酒に酔っているのではありません。あなたたちは罪のないイエスを十字架に付けたのです。悔い改めてイエスの名によって洗礼を受け、罪を許して貰いなさい。そうすれば神からの賜物として聖霊を受けることが出来ます」とペテロは証しします。
 それ聞いた人々は、その日の内に三千人が洗礼を受け、仲間に加わったのでした。

 

    この奇跡をどのように捉えたらよいのでしょうか?
 私たちが聖書の奇跡について考えるとき、大きく分けると3通りの考え方があります。
 一つは奇跡をそのまま受け入れるという捉え方です。根本主義的理解(ファンダメンタリズム)とも呼ばれます。この考え方では科学的知識とは相容れず、聖書を信じて科学を否定するか、科学を信じて聖書を否定するかの二者択一を迫られます。
 二つ目は科学的に立証しようとする捉え方です。聖書の奇跡を科学的に合理的に説明しようという立場です。しかし人間の理性・知性・徳性ですべてが説明できるとすると、神も説明できることになります。その時、神は文字化され私達の手のひらに乗るようになってしまうのです。
 三つめは奇跡を解釈する。非神話化の立場とも言いわれますが、古代人の神話的表現を現代人に分かりやすく翻訳しょうとする立場です。

 私は理科の教員をしていましたので、二つ目の「奇跡は科学的に立証できるのではないか」と考えたときもありましたが、神学校の学びの中で、どんなに科学が発達しても、神を具体化することはできないことが分かってきました。「神さまはこんな方ですよ」と神のすべてを語ることが出来たとして、それは本当に神を語っていることになるのでしょか?神は私達が口先で説明できる程のお方でしょうか?

 

    そうなると、奇跡を語るとき第3の立場から考えることが必要になってきます。弟子たちが様々な国の言葉で語り出したと言うことをお通して、使徒言行録の著者・ルカは何を伝えたかったのでしょうか?

 

    ルカによる福音書によれば復活後弟子たちに姿を現されたイエスは24章の46~48節でイザヤ書を引用しながら「イザヤ書には『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と書いてある。この通りにあなたがたはエルサレムから宣教を始めて、このことの証人となるであろう」と言われました。

 

    ペンテコステの聖霊による奇跡は、このイエスの言葉が実現可能であることを、神が示されたのではないかと思うのです。
 イエスの時代はアラム語、ヘブライ語、ギリシャ語などが使われていました。しかし、さらに多くの言葉でイエス・キリストのことが伝えられる事が可能であり。そしてそのことによって罪の赦しを得る人が多く出てくるであろう。この事を伝えたかったのではないでしょうか。

 

    事実、それから世界中にその国の言葉で福音が伝えられていきました。日本にも470年前の1549(天文18)年にザビエルによって日本にキリスト教が伝えられました。聖公会は160年前の1859(安政6)年にウイリアムスによって伝えられました。さらに141年前の1878年(明治11年)には鹿児島へ、103年前の1916(大正8)年には大口へ伝えられました。
 聖霊降臨(ペンテコステ)から2000年の時を経て、日本の鹿児島まで福音が伝えられたのでした。ペンテコステの奇跡はイエスが言われたとおり、実現したのです。    

 

    私たちもこの聖霊の働きによって洗礼を受け、神の子として受け入れて頂きました。聖霊の働きには、神と私たちを結びつける働きと同時に、私たちも互いに結びつける働きがあります。
    聖霊によって私たちは神の子とされ、家族として一つに結ばれています。つまり神の家族の一員となったのです。
 家族はよく似ています。私も兄とはよく似ていると言われます。また息子にもよく似ていると言われます。聖霊によって神の家族とされた私たちはイエス・キリストに似た者となるのです。姿形が似ているだけでなく、イエス・キリストのように考え、イエス・キリストのように行う者になるのです。
  
 ペンテコステの聖霊降臨の日から新しい時代が始まりました。イエス・キリストの時代から聖霊の時代へ移りました。
 今、私たちはその聖霊の時代を生きています。私たちも2000年前の弟子たちと同じように、この聖霊の時代を喜びをもって生きていきたいと思います。