諸聖徒日「先達の信仰に続く」マタイ5:1-12(2018年10月28日)

父と子と聖霊の御名によって アーメン。

 

    ようやく秋到来を肌で感じるようになりました。神様は私たちに四季の恵みと喜びを与えてくださいます。秋の到来を感謝しましょう。

 

    さて今日は「諸聖徒日」です。「諸聖徒日」は私たちの「日本聖公会」にとってクリスマスやイースターと同じ重要な祝日になっています。
 「諸聖徒日」は天に召された有名無名のすべてのキリスト教の聖徒(聖人)を記念する日です。紀元300年頃から、すべての殉教者を記念して5月13日に行われていました。ローマ法王グレゴリウスⅢ世(731-741)時代に11月1日に諸聖人の祝日として守られるようになりました。
 11月2日は「諸魂日」です。「諸魂日」は信仰を持って世を去った全ての人々の記念日として「59年祈祷書」から、11月2日に守られています。

 

    イエスの十字架と復活の後、イエスの福音すなわち「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい」を実践するために世界の人々に向けて活動を始めたクリスチャン達は、最初はユダヤ教の人々、続いてローマ帝国の人々に弾圧を受けます。イエスの説かれる「愛」は権力を持っている人にとっては危険な思想に見えました。
 特にローマ帝国でのキリスト教の弾圧は厳しいものでした。ネロ皇帝の迫害の様子は、「クオバディス」、「聖衣」などの映画にもなっているので、ご覧になった方もおられると思います。捕らえられたクリスチャンを競技場でライオンや虎などの猛獣と戦わせたり、戦闘シーンを再現して殺しあいをさせたりと、とても直視できないやり方でクリスチャン達を迫害したのでした。
 それでも当時のクリスチャンたちは礼拝を守りました。礼拝は墓穴(カタコンベ)で行われました。そこで司祭は犠牲になった人々の名前を読み上げ、安否を確認したのでした。諸聖徒日や毎週の礼拝の中で逝去された方の名前を読み上げるのは、このときに始まった習慣です。今日の福音書の箇所は迫害される人々にとって、大きな励みとなり救いとなったのでした。
 本日の福音書で読まれた箇所は、山の上で語られたので「山上の説教(垂訓)」と言われています。この当時の、イスラエルの民衆の生活はひどいものでした。当時の律法では、罪を許してもらうためには、神殿で捧げものをしなければなりませんでした。それが出来なければ罪人のままでした。また、徴税人はローマ帝国への税金を収めるために、同胞であるイスラエルの人々から税金を徴収しました。ローマが指示した税金さえ納めておけば、あとは自分たちで徴税の項目を考え勝手に税金の名目でお金を集めていました。経済的に貧しい人たちには生きにくい時代でした。そういう状況の中でのイエスの言葉でした。
 
 その後もキリスト教の宣教活動に対して様々な迫害がありました。その迫害の中にあるクリスチャンにとって、この山上の説教はどれほど慰めとなり励みとなったことでしょう。

 

    旧約聖書の日課で読まれました「シラ書」には「先祖たちの中には、後世に名を残し、輝かしく語り継がれている者のほかに、忘れ去られた者もある。彼らは、存在しなかったかのように消え去り、あたかも生まれ出なかったかのようである。彼らの子孫も同様であった。しかし慈悲深い先祖たちの正しい行いは忘れ去られることはなかった。彼らの子孫はとこしえに続き、その栄光は消え去ることがない。先祖たちのなきがらは安らかに葬られ、その名はいつまでも生き続ける。」と記されています。
 使徒書で読まれました「ヨハネの黙示録」はまさに迫害の中にあるクリスチャンに向けて書かれました。ローマへの抵抗のために書かれたとも言われています。
 今日の黙示録には「彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく、ぬぐわれるからである。」迫害に遭った人々への慰めの言葉が書かれています。
 さらに「マタイによる福音書」では「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
 これらのイエスのみ言葉にどれだけ多くの人が励まされてきたことでしょう。

 

    今、目の前におられる信仰の先輩方は鹿児島の地でイエス・キリストの福音に触れ、信仰生活を全うしてこられた方々です。様々な困難を乗り越えて、福音を宣べ伝える拠点としてこの教会を守ってこられました。
    鹿児島に聖公会の信仰を運んだのは薩摩藩士和田秀豊でした。彼はウイリアムス主教により1874(明治7)年9月、最初に按手を受け、聖公会の肢に連なりました。その前年の1873年(明治6年)はキリシタン禁止の高札が降ろされた年です。西南の役の前年の1876(明治9)年春、和田は故郷で伝道しようと帰ってきました。鹿児島に帰るときにウイリアムス主教は
  「決して戦いに出るな。20人や30人の敢をたおしてなんになる。あなたはイエスのため十字架の戦いをたたかって人を救うのだ。薩摩の人は戦うことを光栄に思うようであるが、戦いが起こってもくみしないように……」とはなむけの言葉をおくったそうです。

 

    西南の役の翌年1878(明治11)年、本格的に聖公会の宣教が始まりました。モンドレル長老は神学生2名を伴って長崎から海路鹿児島を訪れました。これが鹿児島伝道の始まりです。
 最近になって1886年(明治19年)に来日したビカステス主教の訪問記録が出てきました。ビカステス主教が日本全国を回り堅信式をした記録が出てきたのです。
 1886年(明治19年)12月7日にはビカステス主教は鹿児島を訪問し男性6名(吉井、牧野、蒲池、柳川、川添、志野先)、女性4名(西、吉井、後藤、蒲池)が堅信式を受けたのでした。    
 鹿児島復活教会も和田秀豊の帰郷から今年で142年を迎えます。モンドレル長老の宣教開始から140年を迎えます。
 信仰の先輩たちの残されたものを確認しながら、私たちも皆さんのあとに続く者となりましょう。

 

    今日は礼拝のあとで、信仰の先輩達の思い出をたくさん語りあいたいと思います。