降誕後第1主日「イエス・キリストの先駆けヨハネ」ヨハネ1:1-18(2018年12月30日)

父と子と聖霊のみ名によって アーメン                                                      
 クリスマスの喜びも瞬く間に過ぎて、町の中も新年を迎える準備で慌ただしくなりました。飾り付けも一晩でお正月の飾り付けになりました。

 

    さて、今日から降誕後の主日に入ります。教会歴を見て見ますと、1月1日は「主イエス命名の日」、1月6日は「顕現日」として、祝日として礼拝を献げることになっています。「顕現日」は3人の占星術師がイエス・キリストの誕生の祝いに駆けつけ、イエス・キリストが公の場に姿を現された日です。顕現日以降は顕現後の主日が続くことになります。

 

    さて今日の福音書はヨハネによる福音書です。14節までは降誕日の礼拝の福音書と重なっています。
ヨハネ福音書の成り立ちや、その言葉の使い方については降誕日の説教の中でも触れました。

 

    本日は先ほど読まれました福音書を通してイエスとヨハネの関係について考えてみたいと思います。

 

    ヨハネは自分の役割をよく理解していました。
 ヨハネの役割は光すなわちイエスを救い主、キリストとして証しするためでした。
 世の中の人々がイエスを簡単に認めないことはヨハネにも初めから分かっていました。しかし、ヨハネはイエスこそが神の独り子であり、救い主である事を確信していました。
それで、ヨハネは声を張り上げて
「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
と証しします。
 さらに「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」と律法では与えることが出来なかった恵みと真理をイエス・キリストが与えてくださることをヨハネは証しするのです。

 

    ヨハネは荒野で瞑想し祈りながら過ごした後、ヨルダン川で洗礼を授ける時に「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
と悔い改めと神の怒りを民衆に教えますが、イエスはモーセの律法を超えて、神の恵みと愛を教えるためにこの世に来られたのでした。
 この違いが洗礼者ヨハネとイエスの決定的な違いでした。
しかしヨハネは決しておごり高ぶることなく、民衆が「あなたが救い主ですか」と尋ねたとき、「私ではない。私のあとから来るお方が、その救い主です」ときっぱり否定するのです。
ヨハネは自分自身でその限界が分かっていたのです。

 

    イエスが語られる愛こそが私たちの求めていた救いであり恵みであるのです。
 イエス・キリストの愛の考えが、この世にもたらされて私たちの人間同士の関係が大きく変わりました。イエス・キリストの愛は様々な場所で光を放っています。
 幼稚園、学校の教育で、障がい者との関わりの中で、病院の中で、高齢者の施設で、難民の支援で、災害現場でイエスの愛は光を放っています。
 そのどれもが、イエスが肉のかたち、すなわち人としてこの世に来られた事から出発しているのです。

 

    ヨハネはこの後、捕らえられ処刑されます。イエスの誕生は喜ばしいことですが、イエスの先駆けとしてその役割を果たしたヨハネのことも心に留めておきたいと思います。