降誕日「『言』によって生かされる」ヨハネ1:1-14 (2018年12月25日)

父と子と聖霊のみ名によって アーメン                                                      
 クリスマスも喜びのうちに今日の日を迎える事が出来ました。昨夜は40名の方がイブの礼拝に参加され一緒にクリスマスの喜びを分かち合うことが出来ました。

 

    さて今日の福音書はヨハネによる福音書です。最初の部分が他の福音書と違って論理的にイエス・キリストとは誰かを語ろうとしたのがヨハネの福音書だと言われています。イエス・キリストが神の子として生まれたことを証明しようとして書かれています。
 したがって降誕節でもこの箇所が良く読まれるわけです。

 

    今日の福音書では「言(ことば)の内に命があり、命は人間を照らす光であった。」と書かれています。「言」はイエス・キリストを表わしています。初めに「言」があったと言うことは、ずっと初めからイエス・キリストは居られたと言うことです。キリスト先在論とも言われます。「言」をイエス・キリストに置き換えて読んでいくとこの箇所はよく分かります。
 すなわち、「言」すなわちイエス・キリストの内に命があった。それは人間を照らす光になるというのです。この「命」も「光」もイエス・キリストの事を指すと解釈されますが、今日はこの「言」について考えていきたいと思います。

 

    わたしたちに神さまは「言」を与えてくださいました。人間は「言」で物事を表現して初めて人間になるのです。

 

    ヘレン・ケラーとサリバン先生の話を皆さんもご存知だと思います。ヘレンはサリバン先生の熱心さでついにすべての物に名前があることを理解します。最初は「水」という言葉でした。サリバン先生は井戸水をヘレンの手に流しながら指文字で懸命に「水」を示します。その時ですヘレンは口から絞り出すように「ウオーター」と言葉にしたのです。映画でこのシーンは印象的でした。それからヘレンの生活は一変するのです。
全てのものに名前がある事を知ったヘレンは次から次に言葉を覚えていきます。
 その大切な言葉を私たちは本当に大切に使っているでしょうか。

 

    私たちのまわりでは人を傷つける言葉が飛び交っています。
政治や国会でのやりとりを見てみますと嫌気がさしてきます。
アメリカでは大統領選挙のテレビ番組を見ていた少女が泣き出しました。

 

    社会の中で、学校で、家庭で互いに傷つけ合う言葉が飛び交います。言葉が凶器になることさえあるのです。心ない言葉で自ら命を絶つ人もいます。

 

    しかし、相手に共感し相手のことを真剣に考え、その人のために祈る時に言葉が命となり光となるのです。

 

    言葉に出しての祈りではなくても、その人について「あの人はどうしているかな」と思いをはせるだけでも良いのです。次にその人に出会ったときに掛ける言葉はその人にとって光となることでしょう。

 
 さて皆さん今年1年間を振り返って見てどうでしょか?
自分が口に出した言葉は相手に命を与え光となったでしょうか?相手をずたずたにした言葉はなかったでしょうか?よく考えてみたいと思います。
来年こそはあなたの言葉で相手に命をあたえ相手にとって光となるようにしたいものです。
相手のことを真に考え祈る事によって語られる言葉は、命となり光となるのです。

《参考》  
※ヨハネによる福音書―ユダヤ教に対する論争の書
第四福音書とも呼ばれるヨハネ福音書は、共観福音書とは全く独自の観点とセクト的立場から書かれている。著者は使徒ヨハネの弟子? 著作の場所は、ギリシャ語圏の南シリアか北パレスチナとされる(小アジアという説があるが)。時代は、内容から、マタイ福音書よりやや遅い、90年代と考えるのが妥当とされる(100から110年ごろ説もある)。
なお、ヨハネ福音書の著者は、使徒ヨハネと伝統的に言われてきたが、使徒ヨハネであれば間違うはずがない記事(祭司とレビ人を、ファリサイ派に属しているという1・19、24の誤りや、サドカイ派が登場しないことなど)や、内容(ヨハネの兄弟、大ヤコブの名がないなど)から、疑問視されている。また、ヨハネ黙示録の著者と同一人物とされる説もあったが、内容から見ても全くの誤解。
ヨハネ共同体の一人が書き、使徒ヨハネの権威のもとに発表され、読まれた(395頁、新約聖書註解Ⅰ、日基出版局)。

 

※ユダヤ教との抗争―キリスト者の追放(393頁、新約聖書註解Ⅰ、日基出版局)
マカバイ戦(紀元前167年)後、ユダヤ教の再建を図るファリサイ派は、宗教会議をヤムニアで行い、旧約正典の範囲を定め、またキリスト者を異端として宣言して、公式にシナゴークから追放した(90~100年)。
ユダヤ人キリスト者のいるヨハネ教団は、脱退する者も現れて、内部対立、分裂の危機に陥る。そのなかで、イエスを神と告白し得ないユダヤ人にたいして、光と闇、霊肉など二元論のグノーシス的発想で決断を迫り、また神は愛であることを説き、愛の共同体の再建を計るよう提言している。
なお、ヨハネ福音書では、ほとんど、ユダヤ人=ファリサイ派の意味に用いている。シナゴークを中心とする、ユダヤ人共同体は、戦後はその多様性を失い、ファリサイ派が主流となった。ゲットーに暮らすユダヤ人イエス派は、そのユダヤ人社会から追放されると、生活の基盤を失うので、ほとんどがキリスト教を捨てたのである。従って、キリスト教は、異邦人社会のキリスト教会が、主流となり、現在に至る。

 

※ことば、命、光などキリストの象徴的な表現―ヨハネ福音書の特徴
ことば、真理などで象徴したキリストは、神である、と最後に至って、トマスが告白する(20:28)。それまでは、「しるし」により、神であることを明らかにしてゆくが、ユダヤ教徒は、理解できない(弟子たちは、神の子、1:49.神の聖者、6:69と理解するが)。
なお、光と闇、霊と肉、善と悪などのギリシャ的二元論で対立させ、片方を切り捨てる、割り切った論法を用いているのもヨハネ福音書の特徴といわれる。