顕現日「博士たちの礼拝」(小林史明司祭)(2019年1月6日)

今日は1月6日。顕現日です。東方の博士たちが、イエス様を礼拝に来たことを記念する日です。クリスマスの季節は、12月25日の降誕日から、1月6日の顕現日まで、ということになっています。今日でクリスマスの飾りは片付けるのが伝統です。

 

それはともかく、今日の福音書では、博士たちのことを「占星術の学者たち」と呼んでいます。ちょっと余談ですが、今日、今この時には、大変珍しい天体の現象が起こっています。午前10時ごろがピークです。実は今日は部分日食が起こっているのです。輝く太陽と地球の間に月が表れて、太陽の光をさえぎる現象が今起こっているということです。

 

話を元に戻すと、福音書に出てきた学者たちが2000年前に見た星は何だったのでしょうか?この特別な星には、いろんな説があります。
例えば、紀元前11年頃、ハレー彗星が長い光の尾を引きながら現れた、というのがあります。また、紀元前7年頃には、土星と木星が接近して、強烈な光を放っていた、という話もあります。

 

その他にも、シリウスという、オリオン座の右下、おおいぬ座の明るい星で、実際、夜空に輝く一番明るい星があるんですが、エジプトでは、このシリウスが夏至の頃、太陽と一緒に昇って来ると、ナイル川の氾濫が始まるらしい、ということで、エジプトの暦の基礎になる星らしいです。これが、紀元前5年から紀元前2年頃、非常に明るく光ったらしい。エジプトでは、この、シリウスが太陽と一緒に現れる季節、メソレという12番目の月の名前で呼んだらしいのですが、メソレとは、王子の誕生という意味で、古代の占星術士たちは、これが、ある偉大な王の誕生を告げている、と信じていたようです。

 

これだ、とハッキリ言うことはできないらしいですが、紀元前4年にヘロデ王が亡くなっているので、このシリウスという、夜空で一番明るく光る星などが、特に異常に輝いたあたり、天体を見るのを専門としていた人たちは、これは王がこの世に生まれた、と考えるのも無理のないところだったようです。

 

この学者たちが、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方を探してやってきた。」と言うわけです。その時、ユダヤの王だったのは、ヘロデ王でしたが、このヘロデは、純粋なユダヤ人ではなく、ユダヤ人の母とエドム人で、ユダヤ教に改宗した父との間に生まれた子どもだったので、ユダヤ国民からの支持が弱く、ローマ帝国の皇帝を頼りにしていた王でした。ですから、『ユダヤ人の王』という言葉は、自分の地位を脅かす存在と思われて、大変恐れていたのです。

 

ヘロデ王は、民の祭司長や律法学者に、メシアの生まれる場所を調べさせますと、ミカ書5章の言葉を引用して、ベツレヘムがその場所であることを探り当てます。実際のミカ書を引用してみます。
『1:エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。2:まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は/イスラエルの子らのもとに帰って来る。3:彼は立って、群れを養う/主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶからだ。』

 

ちなみに、この箇所は、その前の4章から始まる「終わりの日の約束」という見出しの中に含まれる所で、4章の3節には、もうひとつ、有名な言葉が出てきます。

 

「3:主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」

 

イエス様のもたらされた福音が、どういうものか。権力者ヘロデとは違うものであることが、このミカの言葉でもわかるでしょう。

 

先月紹介した、聖書唱歌の35番に「つるぎを変えてすきとなし やりをばかえて鎌となす、ミカ書に非戦の思想あり」というのがありました。そんな流れの中で、ベツレヘムが紹介されているのです。

 

このベツレヘムに占星術の学者たちが、贈り物を持ってきます。

 

この贈り物については、聖歌の110番に紹介されています。『我らは東のみたりの博士』という歌です。しかし、聖書には三人とは書かれていません。ところが、贈り物が三つあることから、ひとりずつ三人が持ってきて、それぞれには、名前がつきます。黄金を持ってきたのは、メルキオールという長いひげをはやした白髪の老人。乳香を持ってきたのは、カスパルで、若くてひげがなく、赤ら顔をしている。没薬を持ってきたのはバルサザール。浅黒く、あごには、はえたばかりのひげがある、となります。

 

これが、いつのまにか、博士から王さまにかわり、やがてヨーロッパ、アジア、アフリカの3大陸を代表するものにかわります。外国の三大陸を代表する王たちが、イエス様を拝んだ、という話に発展したのです。

 

3つの捧げ物を見てゆきましょう。先ず、黄金。
「われは黄金(こがね)を、み子にぞささげん。ものみなおさむるきみにませば。」
黄金は金属の王様で、人間の王にふさわしい贈り物だ、というわけです。

 

しかし、ここで言う王様というのが、ヘロデ王のような権力者ではないことは、ミカ書の4章の言葉でもわかるでしょう。人々の上に君臨するのではなく、人々の下で仕えることで、人々の模範となるような生き方をされた、ということでしょう。
そして、この働きを、現在は、キリストの体である教会が担うことになっている。「僕としての教会」と言う言葉がよく使われたものです。
2番目のささげものは、乳香でした。

 

「乳香ささげ ひれ伏しおがみ 祈りとたたえを ささげまつらん」
香りのいい、乳香は、神殿の中で礼拝と、犠牲が捧げられる時、使われたものです。祭司の務めは、人が神様のもとへ行く道を開くことです。祭司という言葉をラテン語では「ポンティフェクス」と言うらしいのですが、それは「橋をかける人」という意味だそうです。祭司は神様と人との間に橋をかける人だということ。

 

その祭司のつとめも、現在教会が担っていることを皆さんが意識しておられるでしょうか。

 

私が鹿児島では毎回使っている、第2の感謝聖別文の中にあります。祈祷書の179ページ。真ん中の司祭が祈る所です。
「わたしたちを、み前に立たせ、祭司として仕えさせてくださることを感謝し、このパンと杯を献げます。」と私が読むのですが、「これは、祭司だから司祭の仕事だ」ということではありません。教会が世界を代表して神様に向かって祈っているのであって、また教会は、神様の祝福の喜びを、世界に伝える、とりなしの祭司の役割も持っている、ということです。

 

さて、最後の、没薬という献げ物ですが、聖歌では、
「苦難をしめす 没薬ささげん 世のためほふられ 墓におかれん」と歌います。
没薬は、死体に塗るためのものですね。イエス様が、この世に生まれた目的は、死ぬためだった、ということです。イエス様は、人々に仕えて生きられた末に、十字架に架けられることが、この博士たちのささげものを通して、生まれた時から示されている、ということです。

 

私たちは、羊飼いが出てくる、ルカによる福音書のクリスマス物語を通して、世界全体の喜びを感じます。そして、マタイによる福音書のクリスマス物語も、遠い外国からお祝いに駆けつける人々がいることで、世界の救い主の誕生を祝う気持ちが高まります。しかし、ベツレヘムに起こったイエス様の誕生が、決して喜びだけではない、ということを忘れないようにしたいと思います。

 

この博士たちの礼拝の後、ベツレヘムの2歳以下の子どもたちは殺されるし、そこから逃れたイエス様も、ヘロデの息子の時代に、人間と神様の和解のために、犠牲になられたことを、クリスマスの関連の最後の礼拝で、覚えたいのです。これから、4月21日のイースターまで、わたしたちは、イエス様の成長や、その生涯、特に苦しみを学んでゆくことになりますが、この顕現日の博士たちの物語、特にその捧げ物が、イエス様の生涯を暗示していることを覚えて、それらを学ぶ時としましょう。