大斎節前主日「祈ることの大切さ」(小林史明司祭)(2019年3月3日)

今年も、今週の水曜日から、大斎節が始まります。管区事務所から、大斎克己献金の趣意書と献金袋が送られてきて、「また、修行の季節が始まるのか」と思ったりします。

 

ところが、今日の福音書を読んでいて、どうも、私たちが大斎節に、「今年は神様のために、信仰の修行として、これをやろう、とか、これをやめておこう。」という風に考えて実行するのは、的外れではないか、という気持ちにさせられたんです。

 

今日の福音書は、山の上で、イエス様の姿が変わる、いわゆる「主イエスの変容」の出来事です。今日の聖書の最初は、「この話をしてから八日ほどたったとき」という言葉で始まっています。この八日前、イエス様は五千人に食べ物を与える、いわゆる「パンの増加の奇跡」を行って、群衆を満腹させるのですが、ご自身は、そんな後で、しばしば人々を避けるように、祈るために退かれます。そして群衆たちがイエス様のことをどのように理解しているか、弟子たちに質問した後で、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という質問をして、ペトロは「神からのメシアです」と答えたのです。

 

この答えは正しかったのでしょうが、イエス様はそれを誰にも話さないように命じて、ご自身がやがて殺され、三日目に復活することを予告し、弟子たちにも「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言われて、弟子たちを戒められました。弟子たちはイエス様のことを、まだ十分には理解していなかったのでしょう。

 

今日のところで、イエス様は、祈っておられるうちに、姿が変わって、エリヤやモーセと一緒に語り合っていました。その話の内容は、「エルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」と記されています。イエス様は真剣に祈っておられたのでしょう。

 

ところが、ここでペトロが口をはさんで「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と言います。そして、この福音書の著者は『ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。』と解説しています。

 

弟子たちは、八日前にイエス様から戒められていましたが、その時と同様に、イエス様の受難の意味がわからず、そして、そんな世間から離れて、山の上ですばらしい光景を見た感激だけで、「仮小屋を三つ建てましょう。」と言ったのだろうと思います。

 

そこに、雲が現れてきます。雲は、モーセがシナイ山に登った時以来、神様が現れることの象徴で、神様からの声が聞こえてくるのです。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」

 

これは、弟子たちがイエス様のために、仮小屋を建てる、という人間の努力よりも、イエス様からの声を聞いて、それに聞き従うことの方が大切であることを教えている、ということでしょう。


「大斎節が始まるから、今年は何をしましょう。」と、修業を始めることは、ちょうど、何もわからないで、建物を建てようとしている弟子たちと変わらないように思うのです。

 

私たちが、イエス様の声を聞いて従うとは、具体的にどういうことなのでしょうか。
今日の福音書に名前が登場したエリヤは、旧約では、シナイ山に居ます。彼は、北イスラエル王国で、悪名高いアハブ王と妃のイゼベルの夫婦と対決し、カルメル山の上では、バアルの預言者たちと戦って勝つのですが、イゼベルに命を狙われ、命からがら、シナイ半島の、以前モーセが神様から十戒を授かった、シナイ山まで逃げてきていたのです。

 

きっとここに行けば、神様の声を聞ける、と思ったのでしょう。そして、実際神様からの声を聞き、エリシャに油を注いで、エリヤの後を継ぐ預言者にする命令を受けたのです。

 

イエス様にしても、エリヤにしても、高い山に登って、神様のところに近づき、その声を聞いて、自分の使命を悟り、山を下って、自分の現実の世界に戻ってゆく、ということの大切さを示されているのです。そして。「神様の声を聞く」というのは、「祈る」という言い方に置き換えられるように思います。

 

私は、以前、人から勧められて、祈りについての本を読んだことがあります。
【人は何のために「祈る」のか】生命の遺伝子はその声を聴いている。という副題がついています。村上和雄という、筑波大学の遺伝子の科学者が、棚次正和という宗教学者と、祈りについて、科学的な視点から、探求した書物です。

 

この本の最初の方に、『最近、「心と遺伝子研究会」というのを作った。自分が遺伝子の研究を続けているうちに、人間の心のあり方が、遺伝子の働きに影響を及ぼしていると確信するようになった』というわけです。そして、「笑い」が、糖尿病患者の食後の血糖値上昇を抑えることを発見した、と言います。そして、これには、祈りをするのとしないのとで、やはり祈る方が、病気がなおる率が高い、というような話が入ってくるのです。

 

読み進めるうちに、人に暗示をかけるような、たとえば100人ぐらいの学生の中から、5人ほどを無作為に選んでおいて、「君たちは100人の中で、特に優秀だ。」と言ってほめたら、そのあとその人たちは、大変学力が伸びた(ピグマリオン効果)、とか、偽薬(プラシーボ)」を渡して、これを飲めばあなたの病気は治ると言ったら、効果があった、など、人間は気分で体の調子まで変わる、などの例をあげながら、話をするんです。「病は気から」みたいな話になる。

 

そんなことが、祈りということと結びつくんだろうか、安っぽく見られているのではと思いました。ところが、ところどころ、ハッとするようなことが、出てくるんです。

 

「なぜ、祈ることを続けてきたか」というタイトルの章で、人間は、自分ではどうしようもない問題、たとえば病気になった時、祈ったら治った。だから、困った時に、人間は祈るんだ。しかし、祈っても治らない場合の方が、もっと多いかもしれない。それでも祈るのはどうしてか。こんな話が出てくるのです。

 

合格祈願をして、神社の賽銭箱に1万円を入れる。100円でもいいが、1万円のほうが効くような気がして奮発する。しかし結果は不合格。それでも「お賽銭を返してくれ」と言う人は、まずいません。

 

ここに、大昔から祈ることに人々が見出してきた大きな効用がうかがえます。人は自分の欲求や願望を満たしてもらうために祈りますが、そうならなくても祈ることをやめませんでした。その理由は、もっと大きな効用に気づいたからです。それは何かといえば「心が安定する、ブレない生き方ができる」ということです。

 

人間にとって一番の問題は死でした。ふだんは意識していなくても、命に限りのあることはいやでも知らされる。また日々の生活の中にも、さまざまな不安や恐怖、悩み、迷いなどが出てきます。そういうものと対峙しながら生きていくのはけっこうつらいものです。

 

不安定な心を何とかしたいと人々は考えました。宗教は人々のこの気持ちを吸収して発展していきます。そのとき決定的な役割を果たしたのが、祈りだったと思われます。祈りを捧げていると心が落ち着きます。心の中に中心軸ができて、ブレない生き方ができるようになるのです。人々はそのことに気がついたのです。

 

「ブレない生き方」とは、人間が生きていくために必要な生命エネルギーが流れてくる、その根源と結び付くということです。生命の根源とつながることが祈りなのです。生命の根源から与えられた生命力によって人間は生きている、このことを人間は太古から直観していたはずです。

 

宗教ではこの生命の根源を神や仏と呼んでいますが、宇宙法則や大生命と言っても同じことです。「ブレない」とは、このような生命の根源に人間の意識がしっかりと結び付くことであり、それが祈りによって実現されるのです。

 

イエス様は、病気を治したり、沢山の食べ物を与えることで、注目をあび、本来の神様の御心を行うという使命がブレる危険を感じたのではないか。また、自分が逮捕され、殺されるという出来事を前に、恐れを感じ、神様からの力と言うか、恵みを頂いて、乗り越えようとして、そんな時に祈られたのではないか、と私は思ったのです。

 

今年の大斎節。いろいろ計画がされているかもしれませんが、自分の心の中心軸へイエス様に来ていただき、自分がブレない、そんな祈りの生活を目指したらどうか、と思います。

 

『生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。』(ガラテヤ2:20)
そんなことを意識しながら、イエス様を自分の中心に置いて、祈りの大斎節を送っていただきたいと思います。