復活節第2主日「見ずして信じる」ヨハネ20:19-29 (2024年4月7日)

父と子と聖霊の御名によって アーメン

 

 ようやく待ち望んでいた春がやってまいりました。あいにく桜雨が続いていますが、鹿児島の桜は今まさに満開です。草花も一斉に咲き始めました。神様が与えて下さる春夏秋冬どの季節も私たちにとって大切な季節ですが、厳しい冬の後には必ず素晴らしい春を与えて下さるのです。同時に主イエス・キリストの復活により、何か新しいことが始まるのではないかという気持ちにもなります。皆さんはいかがですか?

 さて復活日の40日後は昇天日(今年は5月9日(木))、さらにその10日後、復活日から50日後は聖霊降臨日(今年は5月19日(日))と続きます。主イエス・キリストの十字架の死と復活の意味をこの主イエスの昇天日までの40日間に思い巡らしていく期間にしたいと思います。

 また、主イエスの復活を体験した弟子達は、世界各地に散らばって宣教活動に入るのですが、その足跡も追って生きたいと思います。

 

 さて今日の福音書では「ヨハネによる福音書」20章19節以下をお読み致しました。

 復活節第2主日では毎年共通でこの箇所が読まれますので皆さんよくご存知の箇所です。

 「ヨハネによる福音書」に沿って一週間の出来事を少し振り返ってみましょう。

 復活の朝、つまり先週の日曜日の朝、マクダラのマリアは主イエス・キリストの体に香油を塗るためにお墓に行きます。そこでマリアは復活の主イエス・キリストに出会うのです。

 マリアは弟子たちの集まっているところに行って、そのことを伝えますが、弟子たちは半信半疑でした。

 その日の夕方、すなわち先週の日曜日の夕方 、弟子たちは隠れ家に集まり鍵を掛けて潜んでいました。弟子たちは自分たちも大祭司や律法学者やファイリサイ派の人々から罪に問われるのではないかという恐れと、主イエスを裏切って逃げてきたことへの自責の念に駆られて鍵を掛けて潜んでいたのでした。

 その厳重に締め切った家の中に復活の主イエスは入ってこられます。主イエスは弟子たちを叱るのではなく「あなた方に平和があるように」と励ましの言葉をかけられたのでした。そして弟子たちに手と脇腹の傷を見せ、復活の姿をはっきりと現されたのです。それから聖霊の息を弟子たちに吹きかけられ、弟子たちに罪を赦す力と権威を授け、復活の姿を世界に伝えるように派遣の準備をされました。

 

 トマスはちょうどその時、その場にいませんでした。後から弟子たちにその話を聞いて悔しがりました。そして「実際にこの目で見て、傷跡をさわってみるまで、その話しは信じられない」と弟子たちに言い放つのでした。その8日後、ちょうど今日にあたります。トマスのために復活の主イエスは弟子たちのところへ再び姿を現されました。そしてマリアにも御自分の身体を触れさせられなかった主イエスは、トマスには身体を触れさせられることによってトマスの疑いを解かれたのでした。

 

 トマスという弟子はマタイ、マルコ、ルカの共観福音書(同じ資料を使って書かれた福音書)では、十二弟子のリストの中ほどに登場するだけですが、ヨハネによる福音書では、重要な役割を果します。

 ヨハネによる福音書の11章16節では、主イエスがラザロを復活させるためにユダヤ地方に戻る際、道中の危険を見抜き、仲間の弟子たちに「行って私たちも、一緒に死のうではないか」と、主イエスと共に死ぬ覚悟で呼びかけます。この時、トマスが主イエスを信頼していることがはっきり分かります。

 また、ヨハネによる福音書14章5節に記されている最後の晩餐の席では、主イエスが復活と再臨について「あなたたちは、私がどこに行くのかその道を知っている」と語られるのを聞いて「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしてその道を知る事が出来るのでしょうか」と質問するのです。自分の無知を素直に認め、主イエスに質問し、その質問をきっかけとして、主イエスはなお分かりやすく説明されるのです。このようにヨハネによる福音書では実直な弟子として描かれています。

 

 さて話を元に戻します。主イエスはマクダラのマリアには身体を触れることを禁じられましたが、トマスには自分の身体に触って確かめるように言われました。この事から主イエスは相手の理解度に応じてわかりやすく説明して下さることが分かります。

  主イエスは御自分の身体を、トマスに示されながら言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 トマスも主イエスを裏切り、捨てて逃げ出した者の一人でした。さらに主イエスの傷跡を見るまでは主イエスの復活を信じないとまで言い切ったのでした。

 このトマスの態度を見ると、ふと私たちの事ではないかと思います。私たちも時として、主イエスを裏切ることもあります。また主イエスを信じるのにいろいろな条件を付けることがあります。「復活が本当なら主イエスを信じるのに」「主イエスの処女降誕がなければ信じるのに」「奇跡は本当なのか」などなど様々な条件を付けます。トマスと同じです。

 そのトマスに主イエスはやさしく語りかけられるのです。この主イエスの語りかけに対してトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と絶句したのでした。さらに、主イエスは慰めるようにトマスに言われます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 この言葉には重要な意味があります。復活の主イエスに実際に会うことが出来たのは弟子たちと数人の女性たちだけでした。主イエスは、復活の姿に実際に出会うことの出来なかった人々の時代が来ることを、この言葉を通して伝えられたのでした。

 事実、その後パウロを始めとする、主イエスに直接出会うことが出来なかった人々によって、主イエスの福音は語り継がれていったのでした。それから2000年を経て、私たちも復活の主イエスを直接見ることは出来ませんでしたが、信仰は守り続けられているのです。私たちにも「見ないで信じる事」が要求されているのです。それが出来る人は幸せな人であると主イエスは言われます。

 

  「見ないで信じる事」は難しいことですが、主イエスの復活を見た弟子たちは、その確かな情報、すなわち福音を宣べ伝え始めました。それが2000年経っても続いていると言うことにより、主イエスの復活が正しかった事が証明されました。

 私たちは主イエスの復活を直接見ることが出来ませんが、見ないでも信じる事ができることを歴史が証明しているのです。

 

 「見ずして信じる」事を主イエスは望まれますが、私たちが悩みの中にある時、失望している時、決断に迷う時、祈りの中で私たちに復活のみ姿を現し、慰め、癒し、勇気づけて下さいます。

 「見ずして信じ、祈る」時に、主イエス・キリストは私たちのすぐ側に立って下さるのです。

 

 礼拝を続けましょう。

カラバッジョ 聖トマスの疑惑