聖霊降臨後第20主日「神の結び合わせてくださったもの」(小林史明司祭)(2018年10月7日)

今年の夏は、大変な暑さで、私も家にいる時は、クーラーをつけっぱなしにしていました。やっと10月に入りました。

 

さて、気候のいい秋には、運動会があったり、文化祭があったり。そして、結婚式も、日本では10月から11月が、シーズンなんだそうです。考えてみれば私の両親も10月15日が結婚記念日だったなあ、と思うのですが、今日の聖書の箇所は、最初の旧約聖書も、今読んだ福音書も、結婚のことが取り上げられていました。

 

さて、今日の福音書のお話のきっかけは、離婚ということが、聖書の教えである律法に適っているかどうか、という、ファリサイ派の人たちの質問でした。このお話を理解するためには、離縁状に書かれた内容を知っておく必要があります。夫が妻に渡した離縁状に書かれた文面は次のようなものでした。

 

「見よ、なんじは、何人(なにびと)と結婚することも自由である。」

 

事実上、離婚状態にある女性は、頼る者がなくて、生活に困る状態だったろうと思われます。

 

夫に縛られることなく、新しい生活を始められるように、離縁状は妻を自由の身にするための証明書だと理解できます。当時の女性の地位が極めて低かったので、それを救済するための方法としてモーセは離縁状を作ることを許可したのだ、ということです。

 

イエス様は、モーセの離縁状のことを説明して、これは、止むを得ない事情がある時、離縁状という書類によって、女性を自由な身分にする、という手続きで解決するのだ、と言われましたが、離婚を良いこととは考えられませんでした。

 

そもそも結婚についての聖書の本来の教えは、そんなものではない。元々の、聖書のはじめに目を向けなさい。天地創造の時までさかのぼって、神様がどのようにして、男と女を造られたのか、思い出して、考えなさい、と言われたのです。

 

福音書の、イエス様のお話を理解するために、今日の旧約聖書は選ばれているのでしょう。

 

今日の旧約聖書である創世記では、神様は、男である人間アダムのあばら骨から、女を作った、と書かれています。これは、女性が男性のあばら骨の一部の価値しかない、という意味ではありません。

 

男と女は元々一つの体だったのだ、と言いたいのです。元々ひとつの体だったので、元に戻りたいから、男女は引かれあうのだ、という説明です。

 

そうすると、「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」という言葉の意味がはっきりしてくるのです。

でも、今日の福音書で大切なのは、一番最後の節。「神が結び合せてくださったもの」という意味です。この「結び合せる」という言葉の語源を調べて行くと、「くびきを共に負わせる」という意味なんです。そのことを覚えておいてください。

 

くびき、というのは、なかなかイメージがわかないかも知れません。
西部劇など見ていると、二頭立ての馬車が、人や荷物を引いているのが出てきます。あの馬につけているのが、くびき、ですが、元々は、二頭の牛を横に並べて、仕事をさせるための道具として、聖書には登場してきます。二頭の牛などを横に並べて、その体に木をつないで、真ん中に鋤(スキ)とか、車の引き棒をつないで仕事をさせる道具です。二頭の牛は、相手と歩調を合わせなければ仕事になりません。
それぞれが、一頭で生活していた時は、行きたいところへ行けるし、自分の好きな速さで歩いたり、走ったりできました。しかし、同じくびきにつながれると、そうはいきません。お互いが引っ張ったり、引っ張られたりしたのでは、傷ついてしまいます。人間を牛や馬にたとえるのは申し訳ないですが、結婚とは、相手の調子を見ながら、健康な時も、病気の時も、お互いに寄り添い、いたわり合う、そういうものだと教会は教えています。

「結び合わせる」というのが、このような「くびきを共に負う」という意味のギリシャ語からきていることは、もうずっと結婚式などで話してきましたが、数年前、「火の馬」という、旧ソ連・ウクライナの山岳民族のドラマを映画で見ていたら、結婚式で、新郎新婦に、本当にくびきを負わせる場面が描かれていたのに驚いたことがあります。関心のある
方は、この映画を見てください。
 

そして、結婚は、ただ「くびきを共に負う」というだけでなく、それを結びつけたのは、神様なんだ、ということを知っておく必要があります。

 

結婚は、相手が好きになったから一緒になり、嫌いになったから離れる、という単純なものではないのです。結婚披露宴のスピーチなどで、「すばらしい家庭を築いてください」「楽しい結婚生活をおくってください」などと挨拶がされます。あたかも、結婚は二人で作り上げるものであるかのような受け取り方です。しかし、教会は、結婚の主導権を握っているのは、神様だということを教えます。

 

ある神学者は、結婚を「人生の学校」にたとえました。わがままに生活していた者が、人と共に生活することで、相手に対する配慮を覚え、人間として成長するための学校だと言うのです。そして、学校の先生である神様が、二人を指導して下さる、というわけです。

 

ですから、男女ふたりが、結婚生活を築くというのではなく、神様が、神様の造られた結婚という制度が、二人を成長させる、という理解です。

 

さて、そのことを、私たち教会を構成するひとりひとりはどう受け止めたらいいのでしょうか。わたしたちは、みんなが結婚して配偶者と一緒に暮らしているわけではありません。

 

パウロは、キリストと教会が一体となって、強く結びついていることを例に挙げて、夫婦がひとつの体であることを教えています。

 

それと同じように、わたしたち教会員は、キリストを頭として、ひとつの体を構成しており、ひとりひとりは、いろんな体の部分を作り上げているのだ、ともパウロは言います。そしてそこにも、お互いを配慮し合う、共同体の教えがある、ということです。

 

私は、フィリピンの聖公会と関わるようになって、フィリピンの聖歌「パナナグータン」という歌を知り、今日のテーマ「神様が結び合わせてくださったもの」ということを実感するようになりました。

 

聖歌418番です。少し読んでみます。

 

1 誰もひとりだけでは 生きてはゆけない
  誰もひとりだけでは 死んでもゆけない
  (おりかえし)
     皆それぞれ お互いに 応えあう
     神さまにむすばれた者だから

 

2 わたしたちが愛して 仕え合うときに
     そこに神の救いの よろこびは実る
   (おりかえし)
     皆それぞれ お互いに 応えあう
     神さまにむすばれた者だから

 

3 わたしたちは生きよう 平和を求めて
     さあ 世界の仲間と 声を合わせよう
   (おりかえし)
     皆それぞれ お互いに 応えあう
     神さまにむすばれた者だから

 

わたしたちは、夫婦にしろ、兄弟姉妹にしろ、教会員同志にしろ、お互いが支え合って、生きていることを教えられる歌ですが、そんな気持ちで、配慮し合う共同体になりたいと思います。