聖霊降臨後第24主日「最も重要な掟」(小林史明司祭)(2018年11月4日)

今日の福音書は、イエス様が十字架に架かる直前、議論の火曜日、という日に起こった出来事です。イエス様は都に登って、日曜日にはロバに乗ってエルサレムに入られました。そして人々に歓迎される中、翌日の月曜日には神殿の庭で、両替人や鳩を売る商人たちをそこから追い出して大暴れしました。

 

人々に注目され、ある意味で危険な人物と見られたのでしょう。大勢のユダヤ人指導者がイエス様に議論をしてきたのです。この日には、「皇帝に税金を払うのは、ユダヤ教の教えに適っているか」という問題や「復活ということはあるのか」という問題など、イエス様を困らせようとする質問がたくさん出てきました。

 

こんな議論を見ていると、ユダヤ教の指導者たちは、イエス様の敵であり、彼らの教えは、古い伝統に凝り固まった、頑固な人たちだと思ってしまいます。

 

しかし、私は28年前、2ヶ月エルサレムに滞在して、大勢のユダヤ人と勉強したり、信仰熱心なユダヤ人が多く住む町に行ったりしているうちに、考えが変わりました。

 

「ユダヤ人は古い伝統に凝り固まっている、頑固な人たち」というイメージは、私たちが勝手に作り上げた先入観であって、実際のユダヤ教徒は、時代の変化に柔軟に対応して、どのように律法を今の生活に適応して行ったらいいか、いつも真剣に考えている人々だと思うようになりました。

 

今日の福音書に登場してくる律法学者もそんなまじめなユダヤ人のひとりです。彼は率直にイエス様に疑問をぶつけます。彼自身は自分なりに答えを持っていましたが、イエス様の答えを聞いて、自分の考えが間違っていなかった、と喜びます。そしてイエス様も彼の受け答えを聞いて、「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。

 

この人の質問は「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」という質問でした。

 

ユダヤ人が、掟と言えば、すぐに頭に浮かぶのが、モーセの十戒です。しかし、実際の生活をするうちに、多くの疑問がわいてくるのです。安息日を聖としなさい、とはどういうことか。安息日には、仕事をしてはいけない、と言うけれど、どこまでが仕事なのか。歩いてどこかへ行くことも仕事になるなら、どこまで歩くのは認められるのか。

 

イエス様の時代には、モーセの十戒が、多くに分類されて、これをしなさい、という掟が248。これをしてはいけない、という掟が365。合計613の掟があったと言われています。

 

それらのどれを優先するべきか、彼らは真剣に議論していたのです。しかし、質問したこの律法学者は、そのような議論に限界を感じていたのではないだろうか。掟の根本を知りたかったのではないか、と思うのです。

 

日本のことわざに、「木を見て、森を見ず」というのがあります。「物事の一部分や細部に気を取られて、全体を見失うこと」と辞書には書かれています。この人は、掟の全体像を知りたかったのだろうと思います。そこで、イエス様もその質問に、十戒の根本を答えられました。

 

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟は他にない。」

 

マタイによる福音書では、最後の『この二つにまさる掟は他にない。』というところをマタイによる福音書では、『律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。』(22:40)。と言われています。

 

みなさんお気づきと思いますが、第一の掟の「イスラエルよ、聞け、」から始まれる聖句は、今日読んでいただいた旧約聖書の言葉です。「聞け」という言葉を、ヘブライ語では「シェマ」と呼びます。今日の旧約聖書、申命記の6章4節からの言葉は、「シェマの祈り」と言って、ユダヤ人が1日の内に、朝夕二回祈る、大変身近な祈りです。この言葉は、ユダヤ人の家に行くと、家の入口のドアの右上に、メズーザという小さな筒に入れられて、出入りする時には、それに触れる、とても身近な言葉なのです。ベンハーの映画などでも家の入口に手をかざしていたのを、見た覚えがあるでしょう。

 

しかし、イエス様はそれに加えて、『隣人を自分のように愛しなさい』というレビ記19章18節の言葉を補われました。

 

質問している人は、「どれが第一ですか」と言っているのに、イエス様は、ふたつを答えられた、というのはどういうことでしょうか。ひとつは、神様への愛。もうひとつは、人間に対する愛です。このふたつはどちらかを選べば、もうひとつは無視してもいい、というものではない、ということです。

 

この答えに、律法学者は「わが意を得たり」と思ったのでしょう。
彼は、「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」と言いました。

 

これは、イエス様が、以前から論争の時、しばしば引用された、預言者ホセアの言葉でした。『私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない(マタイ9:13, 12:7)』という言葉です。

 

しかし正確には、実際のホセア書では「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセア6:6)と書かれています。イエス様よりも、律法学者の方が、正確にホセアの言葉を引用しています。イエス様は大胆に語られたのでしょう。

 

さて、この『私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない』ということ。神様へのささげものよりも、人への愛が大切だ、ということを教えるために、イエス様は、善いサマリア人などのたとえ話をされたし、キリスト教の歴史を通じても、いろんな人が小説に書いたり、行動したりしてきました。

 

今日は、そんな中で、ロシアの作家トルストイが書いた、「二老人の巡礼」という話を紹介しようと思います。

 

ロシアのある村にエフィームという人とエリセイという人。ふたりの老人が住んでいました。ふたりの老人は、お金をためて、エルサレムへ巡礼の旅に出ることにしました。
ところがエリセイは、のどが渇いたのでエフィームに「近くの家で水を飲ませてもらうから、先に行ってくれ。すぐに追いつくから。」と言って別れました。ところが水を飲ませてもらおうとして立ち寄った家は、父親は倒れて働けない。母親は病気で、子供とおばあさんはおなかをすかせている、という、大変貧しい家でした。エリセイは、自分の持っているパンをやり、井戸から水を汲んで飲ませたり、町へ食べ物を買いに行ったりしました。また、働くための畑や馬を買ってやらなければならなくなった。それでエリセイは、巡礼のためのお金をこの一家のためにほとんど使ってしまったので、巡礼をあきらめて家に帰って行きました。

 

一方エフィームはエリセイがいつまでも来ないので、先に行ったのだろうと思って、エルサレムに向かいました。そしてエルサレムのイエス様の墓のある、東方教会の人々が復活大聖堂と呼ぶ、(普通は聖墳墓教会と言うが)教会の朝の礼拝に行くと、大勢の人で、ごった返して、前の方には行けません。しかし目を凝らしてみると、一番前のいい席に、エリセイが座っているのです。ところが礼拝が終って彼を探すけれど、見つからないので、探すのは諦めて、聖地イスラエルの有名なところを全部見て回り、蝋燭を立ててお祈りして、巡礼を終えて帰ることにしました。そしてエリセイが水を飲むために、分かれたあたりの家に立ち寄ると、そこの人は、エフィームを歓迎して、自分たちのことを話しだしました。

 

その家の人が言うには、自分たちが飢え死にしかけている時、あるとても奇特な老人が、いのちを助けてくれたこと。自分たちは、その人のことを神様からの使いだと思っている。そのおかげで、自分たちは今こうして、幸せに暮らしている、というのです。

 

エフィームはふるさとの村に帰ると、エリセイはもう村に帰っていて、外に仕事に出かけていました。エリセイは、エフィームを見て喜び、自分はお金がなくなったので、エルサレムに行かずに帰ったことを話しました。エフィームは、エルサレムでエリセイを見かけたことや途中の農家で聞いたことを言いたかったけど、それは言わないで、心にしまっておくことにしました。そして、「エリセイはエルサレムに行かなかったけれど、神様はこの男を受け入れてくだすったのだ」と思うことにした。

 

人を愛するということは、神様を愛することに等しい、ということをトルストイは語りたかったのでしょう。

 

私たちが、神様の優しさを感じるのは、人が自分に優しい言葉をかけてくれた時が多いのではないでしょうか。そして自分もそんな言葉をかけ、人々に愛を示せることが、神様を礼拝することにつながる、と信じたいと思います。