聖霊降臨後第2主日「弟子の条件」ルカ9:18-24 (2019年6月23日)

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン

 

    本日の福音書ではイエスは自分の弟子になるための条件を示されます。
 皆さんも、自分の人生を通じて、いろんな分野で師とする方がおられ、その師の弟子として自認しておられると思います。
 今日は私たちの人生の師であるイエス・キリストの弟子にして頂く条件について考えてみたいと思います。

 

    まず最初にイエスは弟子たちを始めとして人々が自分の事を正しく理解しているのかを問われます。
 イエスは30歳頃から宣教を初められ、社会的に差別されている人々の側に立ち、貧しい人、病の中ある人達に手を置き癒やし、慰めてこられました。また「けがれた者」とされたハンセン病の人々を抱きしめ「けがれ」を共有し清められました。さらに、律法を守ることこそが救われる道だと信じている人々や、貧しい者を顧みない裕福な人々を戒めてこられました。

 

    その活動の中で、自分の弟子として選ばれたのは漁師や収税人でした。当時、漁師や収税人はみんなが嫌がる仕事でしたがイエスはあえて弟子とされたのでした。イエスはこの弟子達に、御自分の今までの活動が世の中の人々に正しく理解されているのかを問われます。
 人々はまだ、イエスが父なる神からこの世に使わされた意味を正しく理解していません。人々は、直前に殺されたばかりの「洗礼者ヨハネ」と言ったり、旧約聖書の列(れつ)王(おう)記(き)上(じよう)に登場する預言者「エリア」と言ったりと、正しく理解していないのです。
 そこでイエスは弟子たちに問われます。「あなた達は私を誰だと思いますか?」。それに応えてペテロが「神からのメシア(神から使わされた救い主)です」と答えます。粗(そ)忽(こつ)者と思われていたペテロは、実はイエスの活動を半信半疑ながらも見ていたのです。イエスはその意味を正しく理解できていない一般の人々には「まだその事を話さないように」と弟子たちには口止めをされます。                 
 

    ペテロもおそらくこの段階では完全に理解できていなかったと思われます。弟子たちの多くはイエスが力による解放者(救い主)となるであろうと期待していたのです。
  その弟子たちにイエスはこれから自分の身に起こることを告げられるのです。
 「自分は多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される。そして3日目に復活することになっている」
  それに続いて「自分について来たい者は」と語り始められるのです。
 「自分について来たい者は自分を捨てなさい。自分の十字架を背負いなさい。」と言われるのです。イエスは、自分の惨めな最後を語られた直後に、この言葉を語られたのです。弟子たちの思いはどうだったでしょうか。
 ところが、さらに、イエスは言われるのです。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」
 自分のためにだけに生きる人は本当の命を得たことにならない。イエスが隣人に対してしてこられたように、私たちが生きるならば、本当の命を得ることになると言われるのです。

 

    今日の福音書の問いかけをイエスは私たちにもされています。「あなたにとって私は何なのだ?」「自分のこれまでの生き方を捨てて、自分の重荷を背負って私についてくるか?」と問いかけておられるのです。
 イエスは私たちのために十字架に掛けられました。それまでは罪を赦してもらうためには生け贄が献げられてきましたが、それは必要なくなったのです。私たちはイエスがなされたように、「主なる神を愛し、自分を愛するように隣人を愛すること」で罪が赦されるのです。
 今までの生活をイエスを中心とした生き方に変えたとき、自分の背負ってきた十字架をイエスが一緒に担ってくださると言うことです。

 

    今日の福音書の問いかけを、日々、自分自身に問いかけてみましょう。
「私にとってイエス・キリストとはどういうお方か?」
「自分のこれまでの生き方を捨てて、自分の重荷を背負ってイエス・キリストについて行けるか?」

 答えは皆さんそれぞれ違うと思いますが、その答えを考える事によって、イエス・キリストは私たちに新しい生き方を示してくださるのです。

 

イエス様はありがたいですね。